雑記
絵を描く話
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匿名ユーザー
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私は絵を描くのが好きだ。と、思っていた。
私は、上手く絵を描けるけど、絵が下手だ。
私は、上手く絵を描けるけど、絵が下手だ。
どういうことかというと、ものを見て、その形を捉えて紙の上に写し取ることはできる。
具体的なパーツを組み合わせて、描きたいものを描くことはできる。
具体的なパーツを組み合わせて、描きたいものを描くことはできる。
その意味では、上手いといえると思う。
しかし、それは見ているものを写し取るか、または具体的なパーツという記号を使って表現したいことの片鱗を描いているだけだ。
それは、今では写真を撮ったり、また写真を取り込んでフォトショップなどで加工することで同じことができる。
「絵が上手い」というのは、そういうことではないのだ。と、最近になって気がついた。
例えば、音楽。
音楽は具体的な音(効果音など)ではなく、音の流れによって構成されている。それを聴く人は、そのメロディやリズムから直接心に受け取る。
絵画も、そうあるのが本当なのではないか、と思うのだ。
音楽も、初期の初期、文献にも残らない時代には実際の音を真似て表現することを起源としているのは、考古学的にも認められているみたいだ。
その意味では、絵画的な表現というのは遅れているのかもしれない。
もちろん、偉大な先人によって絵画においても音楽と同じように、さまざまな表現を生み出されてきている。
印象派の絵画や、抽象画、前衛芸術やデザインなどもそれに入ると思う。それぞれ、素晴らしい作品がたくさん、すでにある。
ただ、それを受信する側の感性が、遅れているというか、誤解が広まっていると思うのだ。
「ピカソの絵画がわかる」なんて本が書店に並んでいるのがそのいい例だと思う。「わかる」必要があるのは美術館の職員と鑑定家あたりだけでいいと思っている。
見て、心に感じるままに「いい」と思えるかそうでないか。絵画を見る際に必要なのはまさにそれだけではないのか。
そして、より純粋に心に訴えかける為には、むしろ写実的な表現は必要でないのではないか。最近そう思う。
写実的な要素があると、それが現実のものと如何に近いかを見てしまい勝ちな気がする。それが絵を判断する基準になってしまったりする。
しかし、私が今まで本当に、心の底から絵画を「絵画そのものとして」感動したといえる作品は抽象画であったり、前衛芸術であったり。
そのほかにも感動した絵画はたくさんあるのだけれども、それらは「絵画そのものとして」ではなく、それが表現している世界観や物語に対しての感動だったと思える。
だから、私は絵を描くのが好きなのではなかったのだ。
そうではなくて、自分の中にある世界観やある物語を、描き出すのが、好きだったのだ。
そうではなくて、自分の中にある世界観やある物語を、描き出すのが、好きだったのだ。
そのことに気がついて、絵の世界に持っていた未練から、少し開放されたような気がする。私が絵画で表現したかった(と思っていた)ことは、今では他の手段でも表現できる。