戦争・事件一覧


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このページでは国別、年代別に戦争や紛争、事件について簡単に解説しています。


国際連盟発足(出来事)
1920年1月16日、ベルサイユ条約国際連盟条項に基づき創設された初の国際機構「国際連盟」の第一回理事会が開かれた。
国際連盟は平和のための組織だったが思うようにはいかず、1939年に勃発した第二次世界大戦の頃には機能不全に陥り、1945年に後継となる国際連合が発足すると、1946年4月に解消した。結果として世界大戦の悲劇は回避できなかったが、その運用経験は国際連合の発足に大いに貢献した。
詳細は英数略語一覧よりLN(国際連盟)を参照。


目次


100年~0年

世界



日本





~西暦元年の壁 ↑紀元前 ↓紀元後~


1800年~1850年

世界


米英戦争(戦争)

War of 1812とも。1812年6月18日から1815年3月23日までアメリカ合衆国とイギリス(グレートブリテンおよびアイルランド連合王国)及び英国領カナダ等植民地間で起こった戦争。ネイティブアメリカンもアメリカ側・イギリス側でそれぞれ参戦している。
独立戦争と混同しやすいが、これは独立国家同士の戦いであり別物。日本では有名ではないがアメリカでは半ば常識となっている。


日本



1850年~1899年

世界


北米植民地戦争

1869年から1763年までの間に北米で起こったウィリアム王戦争・アン女王戦争・ジョージ王戦争・フレンチ・インディアン戦争(英仏植民地戦争)の総称。
  • ウィリアム王戦争
  • アン女王戦争
  • ジョージ王戦争
  • フレンチ・インディアン戦争

日本




1920年~1939年

世界


国際連盟発足(出来事)

1920年1月16日、ベルサイユ条約国際連盟条項に基づき創設された初の国際機構「国際連盟」の第一回理事会が開かれた。
国際連盟は平和のための組織だったが思うようにはいかず、1939年に勃発した第二次世界大戦の頃には機能不全に陥り、1945年に後継となる国際連合が発足すると、1946年4月に解消した。結果として世界大戦の悲劇は回避できなかったが、その運用経験は国際連合の発足に大いに貢献した。
詳細は英数略語一覧よりLN(国際連盟)を参照。

第二次世界大戦勃発(戦争)

1939年9月1日のドイツ第三帝国によるポーランド侵攻を発端とし、1945年9月2日の大日本帝国の降伏文書調印まで続いた枢軸国対連合国の世界規模の戦争。
欧州と北アフリカ、アジア、太平洋が主な戦場となり、世界中で軍民合わせて千万人単位の犠牲者が出た。
核兵器の登場や戦後の国際連合建設、世界のパワーバランスを決定づけるなど、現代を形作る上で非常に重要な点でもある。
日本では大東亜戦争や太平洋戦争などとも呼ばれる。

  • 枢軸国(1936年11月にムッソリーニがローマとベルリンとを結ぶ線を"axis"と呼んだことが由来とされる。axisとは枢軸、物事の中心軸という意味)
日独伊三国軍事同盟(ドイツ第三帝国、大日本帝国、イタリア王国(イタリア社会共和国:サロ共和国)、ほか。
  • 連合国(1941年12月にルーズベルトが対枢軸国連合を「United Nations=連合国」と呼び、1942年1月1日の連合国共同宣言(アルカディア会談)で広められた)
大英帝国(イギリス連邦)、自由フランス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦、中華民国、ほか。
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日本




1940年~1959年

世界


第二次世界大戦終結(戦争)

1945年9月2日、大日本帝国がポツダム宣言の受諾を承認する降伏文書(休戦協定)に調印し第二次世界大戦が終結した。
同大戦については、第二次世界大戦勃発を参照。

国際連合発足(出来事)

1945年10月24日、アメリカ合衆国サンフランシスコで51カ国が国際連合憲章に署名し発足した国際連盟の事実上の後継機関。
国際連盟の運用実績を元に全会一致の原則を止めたり、強力な制裁執行機関として安全保障理事会の設置などを行った。武力による実効的な制裁が現実的になったため数々の紛争に介入することができた。
一方で安保理を形成する常任理事国の利害に左右され、拒否権を行使されるとまともに制裁できなくなる。
本部はアメリカのニューヨークにあるが、多くの機関は国際連盟から受け継いでいることもあり、スイス連邦のジュネーブやオランダ王国のデン・ハーグにある。
詳細は英数略語一覧よりUN(国際連合)を参照。

二・二八事件(事件)

1947年2月27日から5月16日までの間、台湾で起こった内戦。現地では現在でも語り継がれるほど著名な事件。
1947年2月27日、台湾台北市で闇タバコを販売していた台湾人(本省人)を進駐していた中華民国の麻薬密売取締員と警官が暴行した。さらにこの光景に憤り取締官らを取り囲んだ野次馬に向けて発砲、一人を射殺した。翌28日にはデモ隊が台北市庁舎に押しかけたが、憲兵等が機関銃などで射殺し暴動は拡大していった。
これに対し陳儀・台湾行政長官兼警備総司令は表面では譲歩を示しつつ、大陸の国民党に援軍を要請。3月8日には一個師団を派遣し大弾圧を開始した。特にこの弾圧・虐殺は暴動を扇動しているとされたエリート層が中心となり、3月17日に軍事行動の終了がされたものの、実際には5月16日に戒厳令が解除されるまで続き、さらにその後も散発的に各地で暴動が発生した。
約2ヶ月間で中華民国行政院の報告書では1万8千人~2万8千人が犠牲になったとされこれが一般的に語られるが、虐殺者数には諸説ある。
現在では2月28日は和平紀念日(祝日)とされ、2008年には二二八國家紀念館が開館するなど見直しが進んでいる。
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日本


広島原爆投下(事件)

1945年8月6日8時15分、B-29爆撃機(エノラ・ゲイ)より投下された原子爆弾(リトルボーイ)が高度約600mで爆発した。
世界最初の核兵器による攻撃。

長崎原爆投下(事件)

1945年8月9日11時12分、B-29爆撃機(ボックスカー)より投下された原子爆弾(ファットマン)が高度約500mで爆発した。
現在世界では二番目かつ最後の核兵器による攻撃。

三船殉難事件(事件)

1945年8月20日に樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」「泰東丸」「第二新興丸」が留萌沖で潜水艦に攻撃され沈没・大破した事件。
樺太の大泊から出港した小笠原丸は午前4時20分ごろに潜水艦から雷撃を受け沈没、続いて出港した第二新興丸は午前5時13分ごろ雷撃を受け、その後浮上した二隻の潜水艦から攻撃を受け、これに対し元特設砲艦だった第二新興丸は反撃し1隻に損傷を与えた。その後同船は大きく被害を受けたものの機関に問題がなかったことから留萌港に入港することに成功した。しかし次に出港した泰東丸は潜水艦の砲撃を受け、白旗を掲げたにも関わらず撃沈された。
計1700名以上が犠牲となったこの事件だが、潜水艦の国籍は不明とされている。しかし当時の状況と行動記録から、ソ連潜水艦「L-12」「L-19」による犯行の可能性は確実と言われている。だがソ連そしてロシアはこの犯行を認めていない。
また後日、8月22日には貨物船能登呂丸が宗谷岬沖でソ連機(Il-2の可能性が高いが双発機という情報もある)に雷撃され沈没している。

第二次世界大戦終結(戦争)

1945年9月2日、大日本帝国がポツダム宣言の受諾を承認する降伏文書(休戦協定)に調印し第二次世界大戦が終結した。
同大戦については、第二次世界大戦勃発を参照。

洞爺丸事故(青函連絡船事故)(事故)

1954年9月26日、台風15号(洞爺丸台風)により青函連絡船の洞爺丸、日高丸、十勝丸、大雪丸、第十一青函丸が沈没した海難事故。国鉄戦後五大事故の一つ。
同日18時39分に函館を出港した洞爺丸は、しかし収まると思われていた台風15号の勢力が収まらなかったため函館港外で投錨し天候が収まるのを待った。だが強風と波浪により走錨し、同港七重浜の沖合で蝕底し座礁した。その後も船体は安定せず、22時43分ごろに大波を受け転覆した。
これにより1100名以上が死亡・行方不明となり、同様に沖合で投錨していた日高丸、十勝丸、大雪丸、第十一青函丸も沈没し、乗組員の多くが犠牲となった。
この事故で沈没した船は車両を搭載していたため重心が上がり、また浸水の際に車両が邪魔になり機関部口を閉鎖できなかったことが沈没の原因とされる。また第十一青函丸は脆い戦時標準船だったため大波で船体が切断され沈没した。その後連絡船が改修されるなどの対策が施され、この事故をきっかけに建設することになった青函トンネル完成の1988年3月13日に廃止されるまで、同航路ではこのような事故は二度と起きなかった。

李承晩ライン宣言(事件)

1952年1月18日、大韓民国の李承晩大統領が朝鮮半島周辺海域に漁業保護と自国防衛、領土略奪を目的とした海洋主権宣言を発表した。
宣言に伴い設定された境界線(李承晩ライン)は北朝鮮を含め朝鮮半島を覆う形で、黄海、東シナ海、日本海に跨るもので、韓国では平和線と称している。
この線の主目的は韓国の海洋権益の確保で、特に豊かな漁場である日本海から日本漁船を閉め出すものだった。この境界線を越えた他国の漁船は国境線や公海上などの条件に関わらず拿捕され、漁民は犯罪者として拘留された。
1965年6月22日に日韓国交樹立(日韓基本条約)、日韓漁業協定が締結されるまで328隻が拿捕、3929人が拘留され、44人が死傷した。
なお李承晩ライン撤廃の条件として韓国は日本に対し収監されていた重大犯罪者を含む在日韓国人・朝鮮人472人の無条件釈放と彼らを含む全在日韓国人への永住権付与を要求し、日本はこれを了承した(永住権に関しては在日韓国人の法的地位協定に盛り込まれた)
またこの李承晩ラインはラスク書簡で領有権を否定された竹島を強引に取り込み、事実上略奪した。
外務省 竹島問題

第一大邦丸事件(事件)

1952年2月4日、日本海の公海上で操業していた福岡市北湊町大邦漁業株式会社所属の第一、第二大邦丸が、漁船に偽装した韓国海軍に銃撃・拿捕された。
船上の憲兵の銃撃で意識不明の重体となった第一大邦丸の漁労長(船頭)瀬戸重次郎氏はロクに手当もされず死亡し、火葬さえ船員達が私物を売り払い捻出した。その船員達も僅か四畳の部屋に監禁され、その後の取り調べでも嘘の調書に捺印させられるなどした。しかし調書のずさんさなどから公海上の事件であることが発覚し、岡崎勝男国務大臣は口上書を提出しこれを指摘した。2月22日に福岡に帰港後、参議院で証人喚問され事件の詳細が判明すると、同国務大臣は強く抗議した。
なおWikipediaなどでは在日米軍のグリッチ少将が李承晩と会見し船員が釈放されたとあるが当時の参議院会議録ではその旨がなく、類似しているものでは同会議録の、「オールソン韓国防衛水域封鎖司令官が第一大邦丸、第二大邦丸引き渡しの際に佐世保海上保安部長と両船の船主と会見し、今後日本漁船が韓国内で操業した場合は拿捕し、船は没収する旨を強く申し渡したと新聞にあった(要約)」というもので、まったく逆の内容となっている。
恐らく当時の在韓国連軍のMark Wayne Clark司令官がこの問題に関心を寄せていた(同会議録より)ことや、1954年8月15日に作成された李承晩ラインの違法性や竹島の日本領有を認める米国公式見解であるヴァン・フリート特命報告書などと混同した可能性が高い。
第015回国会 水産・法務・外務委員会連合審査会 第1号


1980年~1999年

世界


ウィスキー・オン・ザ・ロック事件

Whiskey on the rocks. 1981年10月27日にソビエト連邦海軍ウィスキー級潜水艦S-363(U-137)がスウェーデン王国東岸バルト海に面したカールスクルーナ(Karlskrona)の沖合10kmの領海内で座礁していた事件。S-363の新任航法士官が現在位置を誤りスウェーデン領海内に侵入し座礁、折しも冷戦真っ只中である上にカールスクルーナにはスウェーデン海軍基地が存在した。さらにその状態で18時間以上もスウェーデンはS-363が座礁していることもそこに存在していることも知らなかった為、発覚後は大騒動となった。
スウェーデン側は救難・曳航を申し出るもS-363は拒否。ソ連側から曳船と護衛の駆逐艦が救出に向かうもスウェーデン側はこれを許可せず、沿岸砲や艦艇による国境を挟んでの睨み合いが続き、一触即発状態に陥った。
その後外交交渉により11月6日にS-363は解放された。なお事件後当時の乗組員が核弾頭搭載魚雷を有していたことを明らかにした。
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ムスケ島沖事件


日本


兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)(災害)

1995年1月17日午前5時46分52秒に淡路島北部を震源とするM7.3、最大震度7の地震。
死者6000名以上、負傷者43700名以上を出し、戦後日本に置いては最悪の被害を出した。死因のほとんどは古い木造家屋の倒壊による圧死。
この地震では地震大国日本であるにも関わらず、連絡体制や情報収集担当部の未整備など防災体制の不備が露呈し、その後大災害に対応する消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー隊)の創設などの対策が行われた。そしてこの経験はその後の災害に活かされることになる。
また当時の兵庫県は反自衛隊色が強く、日頃の防災訓練で自衛隊の参加を拒否したり、米第七艦隊の救援の申し出を拒否したことなども、被害拡大の一因とされる。
なお毎年1月17日には追悼行事が行われている。
軍事板常見問題 阪神淡路大地震関連
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2000年~2009年

世界


各事件


日本


各事件



関連項目

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