-綱渡り-  - - - - - - - - - - - - 以下の文章中に断定調で明らかな真実の如く書いてある部分がありますが、 それは筆者がそう思っているに過ぎず、事実とは異なる可能性があることを あらかじめ記しておきます。  - - - - - - - - - - - - あの頃僕は理由を求めていた。意味を求めていた。 それは、自分が頑張れる理由や意味ではない。  ”どうすれば頑張れるか”  ”自分の真剣になれるもの、頑張れるものは何か” なんていう、自分を無理矢理に動かすカンフル剤ではない。 なぜそうやって理由を見つけてまで それをやらなきゃならないのかということ。 なぜここにいるのか。なぜそれをしなければならないのか。 今は分かる、それには意味や理由なんて無かったことが。 別に意味なんか無い。少なくとも、たいした意味は無い。 だから別に、それをすることが正しいわけじゃないし、 しないからといって間違いじゃない。 正しい・間違い、善・悪の話じゃない。 そんなもの初めから無い。 だから、やりたきゃやればいいしやりたくなければやらなければいい。 ただ、”ハジキ者”になる覚悟は必要だけど。 それと、「正しいも間違いも無い」ということは、 それをやって自分が変わる・自分を曲げる心配なんてものも必要ない。 あの時、それをしない自分は間違っていると思っていた。 そう教えられていた。 実はそれは正しい。「社会で生きる」という土台の上では。 その上では、それをすることが正しくてそれをしないことは間違い。 それはそうなんだ。 それをやっていかなければ社会では生きられない。 でも自分の土台は、その「社会で生きる」ということではなかった。 ただ「自分が生きる」ということだった。 「そうまでしてそれをしなきゃならない理由」 あるとすれば、社会で生きるために必要だから。 それが普通だから。他の道を選ぶ力が無いから。 少なくとも自分にとってはそうだ。 昔も、今も。  - - ここまで書いてきたことは高校時代とその中の大学受験についてのことだが、 これは、自分がついこの前まで直面していた就職活動にも同じことが言える。 そしてそれに対する自分の思いも同じ。 1つ違うのは、それをするのが正しいことでしないことが間違いだとは思っていないこと。 それでもやはり前向きに取り組めなかったのだが。 (これは自分の弱さによるところが大きい) でもその中で「働きたい」と思える会社に出会えたのは本当に幸運だった。  - - 恐らく今の認識のままなら、この先もこんな 「綱渡りのような生」 を生きていかなければならないんだろう。 まあ、今までもそうだったんだ。やっていけるだろう。 苦しいだろうが。 まだ「それが正しいわけじゃない」って卑屈な言い訳ができる分、楽だ。 ...何かまだ引っかかっている。 それが何かは分からない。 できるなら、できるなら 「綱渡り」の様な、そんなビクビクした生ではなく、 堂々とした生を生きたい。 それは生きることに限らない気がする。