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人生と社会、そして、過去と未来世――人間の生命観を三世にわたって総合的に説き明かした仏法。この最高の哲学を学び、真剣に実践する学生部員の姿が、全国で輝いている。学生部年間拝読御書「開目抄」研鑚の今回の範囲は、第1段「三徳の標示」から第3段「外道の三徳」まで、御書186ページ~同188ページ5行目を学びます。

大意

 冒頭、本抄の主題である「主師親の三徳」を示され、次いで、儒家・外道・内道を「習学すべき物」とされます。
 次に、儒家における主師親を挙げられます。その所説の法が、現世における生き方のみの考察にとどまっていることを指摘され、三世にわたる生命観を欠くという限界を示されます。
 そして、儒家の教義が、仏教が広まるための導入の意味をもっていたことを明かされます。
 さらに、外道は一応、三世の生命観に立ってはいるが、「因中有果」(決定論)か「因中無果」(偶然論)か「因中亦有果・亦無果」(折衷論)で、生命の因果については正確に説いておらず、極端な苦行主義や快楽主義に陥り、ゆがんだ修行に至ることが指摘されます。

一切衆生の尊敬すべき主師親

 「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり」(御書186ページ1行目)
 本抄全体を貫くテーマは、この冒頭の一節に示されている通り、「主師親の三徳」です。
 「主」の徳とは、人々の生活を守る力・働きのことであり、「師」の徳とは、人々を導き、教化する力・働きのことであり、「親」の徳とは、人々を育て、慈しむ力・働きのことを指します。
 一切の衆生は、この三徳の恩恵によって生まれ、成長し、生活を営んでいます。その意味で、「主師親の三徳」こそ「一切衆生の尊敬すべき者」といえるのです。
 ただし、同じく主師親といっても、その恩恵の深さ、恩恵の及ぶ範囲にはさまざまあります。
 それについて、日蓮大聖人は習学すべき思想・宗教として、儒・外・内、すなわち儒教・道教などの中国の諸教、インドの外道つまり仏教以外の諸教、そして内道である仏教の三つを挙げられています。これらは当時、日本に伝えられていた有力な思想でした。
 全世界の主要な思想・宗教を検討して、一切衆生にとって、真に尊敬すべき主師親の三徳を具備する存在はだれかを明らかにしていくことが、本抄の大きな主題なのです。
 それぞれの教えを論じた後、内道の中でも法華経本門の文底の大法をもって、一切衆生を本源から救い守っていく末法下種の三徳を具備されているのが、大聖人御自身であることを示されます。
 すなわち、本抄の末尾には「日蓮は日本国の諸人にしう(主)し(師)父母(親)なり」(同237ページ)と結論されます。
 御自身こそが、末法の一切衆生の尊敬すべき三徳を具備された御本仏(人本尊)であるとの大宣言です。
 戸田第2代会長も「主師親の三徳はすなわち仏であられるので、大聖人こそ末法の仏であると仰せられたのが、本抄の眼目である」と述べています。

三世の生命観を欠いた儒教

 「儒家には三皇・五帝……彼と為す』等云云」(同186ページ2行目~187ページ)
 まず、儒教の限界について述べられます。
 儒教は、現世の生き方については一分の道理を説いていますが、三世にわたる因果の理法をわきまえていません。そのため、本抄では「いまだ過去・未来を一分もしらず」「但現在計りしれるににたり」(同186ページ)と破折されているのです。三世の生命に暗いため、根本的な人間の生き方を明かすところまで至っていないということです。
 三世にわたる生命観に立脚してこそ、現在をどのように生きるべきかが分かります。三世に通じていなければ、「父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず」(同187ページ)なのです。
 次に大聖人は、中国古代の儒教思想が、その後に伝来する仏教への理解を助け、「仏法の初門」(同ページ)として位置づけられることを論じられます。
 しかも、儒教の大成者である孔子自身が、儒教の限界を自覚しており、西方のインドに仏教という優れた教えがあることを知っていたとされています。
 大聖人は、妙楽大師の「礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」(同ページ)との言葉を引かれ、まず礼楽をもって人倫・道徳が培われたことにより、後に仏法が広がるための土壌が作られたことを述べられています。
 「礼」とは社会の道徳的な秩序のことであり、「楽」とは音楽であり、広く文化ととらえることもできます。

六道の生死を超えられぬ外道

 「二には月氏の外道……度す』等云云」(同187ページ8行目~188ページ5行目)
 外道は、一応は三世の生命観に立っており、業や輪廻といった考え方をも示していました。
 大聖人も「其の見の深きこと巧みなるさま儒家には・にるべくもなし」(同187ページ)と述べられています。
 しかし、不完全な因果観に立っていたため、たとえば煩悩を断ずる修行をしても、六道の迷いから抜け出ることはできませんでした。
 寒い冬に、1日3回もガンジス河で浴したり、髪の毛を抜いたり、巌に身を投げたり、自分の体を火にあぶったりなど、極端な苦行主義や快楽主義に陥ったのです。
 大聖人は「外道の法・九十五種・善悪につけて一人も生死をはなれず」(同188ページ)と破折されています。
 その上で、このインドの外道についても、仏法に通ずる一分の真理をもっているので、「外道の所詮は内道に入る即最要なり」(同ページ)と、仏法に入るための入り口の役目を果たすことを述べられているのです。

池田名誉会長の開目抄講義から

三徳を「具備」してこそ「万人」を救済する仏

 大聖人がここでテーマにされているのは、主師親の三徳をすべて兼ね備えた存在は誰かということです。三徳を「具備」していてこそ、「一切衆生」に尊敬されるにふさわしい存在だからです。
    ◇
 古代のインドや中国の思想・宗教においては、創造神や裁きの神、また理想的な皇帝、さらに教えを残す聖人・賢人などに主師親の三徳があるとされてきました。しかし、いずれも三徳具備とは言えない。
 尊貴さ、威厳、力など、主の徳に当たるものは具えていても、父母の慈愛のような徳が見られない場合がある。逆に、慈愛の徳があっても、尊貴さがないものもある。さらに、尊貴さや慈愛があっても、衆生を導く法を説かないので師の徳が見られないものもある。このように三徳の一分しか具えていない場合が多いのです。
    ◇
 三徳は、衆生との関係で表される仏・菩薩や諸尊の徳ですから、衆生に何を教え、いかなる実践を促すのかが、三徳の真正さを知るうえで非常に重要であることは言うまでもありません。
 その観点から検討すると、釈尊こそが一切衆生に対して三徳を具備しているのであり、中国の儒家やインドの外道の諸尊・諸師は「因果」を知らず、真の主師親とは言えない、と結論されています。