爾前経の欠点

「行布を存する」→九界と仏界には超えがたい差別

迹門の欠点

「始成を言う」→成仏には歴劫修行が不可欠



真の仏とは、民衆のために戦い続ける人。さあ「自他ともの幸福」を広げよう!――「学生部年間拝読御書の解説」開目抄第4回では、御書189ページ4行目~同200ページ1行目を研さんし、真の一念三千を明らかにする「発迹顕本」「本因本果」などを学びます。

大意

 一念三千の文底秘沈を述べた前回を受け、まず大聖人以前における一念三千の流布の状況が示されます。
 次に、二乗作仏が爾前権教には説かれず、法華経迹門において説かれたものであることが示され(権実相対)、二乗作仏の難信難解を述べられます。
 続いて、法華経本門において初めて久遠実成が明かされたことが示されます(本迹相対)。
 そして、悪世末法では、特に久遠実成の法門が「難信難解」であることが記されます。

本門で明かされた久遠実成

 「二には教主釈尊は……那由佗劫なり』等云云」(御書196ページ2行目~197ページ9行目)
 前段までに、爾前・権教と比較して法華経が信じがたい点は、第1に二乗作仏を説いていることであると述べられます。
 第2の理由は、久遠実成を説いていることです。
 爾前経では、釈尊がインドに応誕し、19歳で出家し、30歳で成道したという「始成正覚」が一貫した立場です。また法華経以前の諸経を「未顕真実」等と破折している無量義経(法華経の開経)においてさえも、始成正覚を説いている点では、変わりはないことを示されます。
 さらに、法華経迹門においても始成正覚の仏を説いていることを述べられます。
 法華経寿量品で初めて始成正覚が打ち破られ、久遠実成が説かれるのですが、その前に涌出品で「動執生疑」があります。
 無数の地涌の菩薩の出現を見て、弥勒菩薩が釈尊に“わずかな年数の間にどうやって無数の菩薩を教化することができたのか”と質問したのです。
 この疑いに答えて、釈尊が実は久遠の昔に成道したと説かれるのが、如来寿量品第16です。
 いわく「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」と。始成正覚の立場を一言で打ち破った一節なのです。

爾前・迹門の「二つの失」

 「華厳・乃至般若……一念三千なるべし」(同197ページ10行目~17行目)
 ここでは、法華経寿量品で説かれる、「久遠の昔における成仏の因果」である「本因本果の法門」について明らかにされています。
 まず、爾前経における法理上の「二つの失」を挙げられています。
 一つは行布を存する(十界に差別を設ける)故に一念三千が明かされていないことであり、もう一つは始成正覚を説く故に仏の真実の姿が示されず、真実の一念三千を明かしていないことです。
 法華経迹門では、二乗作仏を強調し、諸法実相を説いて、「九界の衆生に仏界が具わる」という「(迹門の)一念三千」が明確にされ、一つの欠点を克服します。
 しかし、迹門では、発迹顕本(仏の仮の姿である始成正覚を打ち破り、仏の真実の姿である久遠実成を顕すこと)がないため、一念三千も真実とは言えず、二乗作仏も確定していないと仰せです。
 そうした迹門の一念三千に根拠がなくて不確かであることを、「水中の月」「根なし草」に譬えられ破折されています。
 次に大聖人は、“始成正覚を打ち破ることによって、爾前迹門で説かれる成仏の果がすべて打ち破られた”“成仏の果が破られたということは、爾前迹門で説かれるすべての成仏の因もことごとく破られた”と仰せです。
 そして「本因本果」が明かされます。
 寿量品では、本果(久遠における成仏の果)である仏界の生命が常住不滅であるとともに、本因である菩薩行を行ずる生命も尽きることがないと説かれています。
 これは、九界の生命を断じて、仏界の生命を成就するという爾前諸教の成仏観とは大きく異なるものであり、本門の成仏の因果、すなわち「本因本果」です。
 この「本因本果」について、大聖人は「九界も無始の仏界に具し」「仏界も無始の九界に備りて」と仰せです。
 「無始の仏界」とは「本果」のことです。この本果の生命に、九界の生命も具わっているのです。
 「無始の九界」とは「本因」のことです。無限に菩薩行を続ける生命そのものこそが、永遠の仏界の生命の具体的実践の姿なのです。
 このように、法華経本門では、「永遠の仏界の生命」と「無限の菩薩行」を説いて、「仏界即九界」「九界即仏界」を明かしたのです。
 こうして、本因・本果が明かされることにより、「真の十界互具・百界千如・一念三千」が明らかになったのです。

久遠実成は極めて難信

 「日蓮案じて云く……二品には付くべき」(同198ページ4行目~8行目)
 ここまでに、迹門の二乗作仏、本門の久遠実成によって、一念三千が完璧になったことが記されました。
 本段では、それにもかかわらず、多くの諸宗の学者たちが、法華最勝の義を容易に受け入れない理由として、特に久遠実成の難信の相が示されます。
 まず、久遠実成の法門を説いた経文は少なく、ほとんどの経説が爾前経の始成正覚の考えに立っていると指摘されます。
 久遠実成の教えは、法・報・応の三身円満の仏である釈尊が久遠以来、常住しているという“三身常住”を説いています。このような仏身観は、法華経のなかでも、涌出・寿量の二品のみに説かれているのです。
 そのため、「どうして、広博な爾前・本迹・涅槃等の諸大乗経を捨てて、わずかな涌出・寿量の二品だけに付くことができようか」と仰せになられ、法華経が難信の経であることを強調されています。

池田名誉会長の開目抄講義から

普遍的な成仏の因果を示す文底仏法
 本因本果による成仏は、寿量品の文の上では釈尊のこととして説かれています。しかし、文底の立場から見れば、釈尊の成仏だけに限られるわけではありません。本因本果は、釈尊の久遠の成仏であるとともに、最も根本的で普遍的な成仏の因果を示しているのです。したがって、万人の成仏の因果でもあるのです。
      ◇
 深く洞察すれば、釈尊一人にとどまらず、すべての生命は本来的に「永遠の仏界」を現し「無限の菩薩行」を続けることを求める存在であるといえます。自他ともの幸福を本来、願い求めるのが生命なのです。
      ◇
 寿量品文上では、釈尊が成就した仏界の本果を表に立てて本因本果を示したといえます。これに対して、文底の仏法では、本因の菩薩行を行ずる菩薩を表に立てて、本因本果を論ずるのです。これは、九界の凡夫に即して成仏の真の因果である本因本果を明らかにしていくことを意味します。これが、大聖人の仏法における文底の本因本果です。
 すなわち、凡夫が初めて妙法を聞いて信受し、果てしない菩薩道の実践を決意するのが本因である。そして、その凡夫の生命に永遠の仏界の生命を涌現することをもって、本果とするのです。
最終更新:2005年12月09日 19:55