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年間拝読御書(開目抄)の解説③」(2005/12/09 (金) 19:51:40) の最新版変更点

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 どんな困難をも乗り越える力が自身に備わっている――こう教えているのが日蓮仏法です。学生部員は今、この希望の哲学を胸に「正義・拡大月間」を驀進しています。「学生部年間拝読御書の解説」開目抄第3回では、凡夫成仏の要法である「文底の一念三千」について学びます。 *大意  前回に続き、「五重の相対」を通し諸思想の浅深を判じられています。  前段で論及された儒家・外道の主師親を打ち破り、釈尊こそが真の主師親の三徳を具えた存在であるとされ、「内外相対」の立場から釈尊の一代聖教こそが真実の教えであると示されます。さらに「権実相対」し、法華経のみが釈尊の正言であると述べられます。  そして、「種脱相対」して、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている一念三千こそが、真実の成仏の大法であることを示されるのです。 *内外相対 **幸・不幸の因果を説く仏教  「三には大覚世尊は……皆真実なり」(御書188ページ6行目~13行目)  まず、釈尊こそが「一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田」であると仰せです。  これに比して、外典・外道の四聖・三仙は「三惑未断の凡夫」であり、「因果を弁ざる事嬰児(=赤ん坊)のごとし」であるから、彼らを師としては「生死の大海」を渡ることも、「六道の巷」を超えることもできないと述べられています。  「三惑未断の凡夫」とは「見思惑・塵沙惑・無明惑」という3種の煩悩を断じていない凡夫のこと。「因果を弁ざる事」とは、人間に幸・不幸をもたらす因果(=原因と結果)を的確に説いていないということです。  続いて、釈尊一代の聖教(内道)は、ことごとく真実の言葉、「不妄語」であり、外典・外道と比較すると、多くの衆生を救う「大乗」、嬰児に対する「大人の実語」であると結論されています。 *権実相対 **万人の成仏を説く法華経  「但し仏教に入て……伏して懐うべし」(同188ページ14行目~18行目)  一代聖教のうち、法華経のみが釈尊の真意を説いた経であると仰せです。  法華経以外の大乗諸教(権教)では、二乗や悪人、女性の成仏を否定しています。それに対し、法華経(実教)は、一切衆生が平等に成仏できることを説いているのです。  前段で、釈尊の一代聖教は皆、実語であると仰せでした。しかし、釈尊の一代聖教も子細に分析すれば、そこには「小乗」(少数の人しか救えない低い教え)もあり、「大乗」の中でも「権経」(真実の教えを説くための方便として仮に説かれた経典)もあります。  さらに、「密教」(仏の真意を秘密にして説かれた教え)、あるいは「ソ<鹿の下に鹿2つ>語」(意を尽くさない語)、「妄語」(虚妄の言葉)、「邪見」(誤った考え)もあります。  そのなかで、仏の悟った究極の真理をそのまま明かした法華経のみが真実であると、日蓮大聖人は結論されるのです。  そして、そのことを示す経文として、無量義経の「未顕真実」(法華経以前の四十余年の経教は方便で、仏の悟った真実を明かしていない、との意)と方便品の「要当説真実」(釈尊は久しい間、権教を説いた後、今やまさに必ず仏の悟った真実を説き明かすだろう、との意)という釈尊自身の言葉を示されるとともに、多宝仏・十方分身の諸仏という他仏の証明を示されています。 *種脱相対 **末法の衆生を救う下種の法  「但し此の経に……これをいだ(懐)けり」(同189ページ1行目~3行目)  「二箇の大事」とは、迹門の諸法実相・十如是や二乗作仏によって示された「理の一念三千」と、本門の久遠実成、本国土妙によって示された「事の一念三千」のことです。  この凡夫成仏のカギとなる「一念三千の法門」について、諸宗は“名前さえ知らない”、華厳宗と真言宗は“ひそかに盗み入れて自宗の教義にしている”と弾呵されています。  そして、「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」と仰せです。「一念三千の法門」が、法華経寿量品の文底にのみ秘沈されていることが示された、極めて重要な御文です。  日寛上人は、この「但」の字を三重に冠して拝され、「三重秘伝」の教判を立てられました。  すなわち一念三千は、一代聖教のなかでも「但法華経」(権実相対)、法華経のなかでも「但本門寿量品」(本迹相対)、本門寿量品のなかでも「但文の底」(種脱相対)に秘して伝えられた大法なのです。  法華経は一経ですが、その説かれた法門の深さから、迹門・本門・文底という三層になります。  そして一念三千にも、それぞれに応じて「迹門の理の一念三千」と「本門文上の事の一念三千」と「文底事行の一念三千」の相違があります。  このうち、「文底事行の一念三千」こそ、成仏の究極の要法です。  大聖人は、凡夫の生命に仏界の生命を現す凡夫成仏の道、つまり事実として一念三千・十界互具を実現する道を、寿量品の久遠実成の根底に洞察されました。  この凡夫の生命に仏の生命を現すのが、釈尊を含む一切の仏を成仏させた「下種の法」である南無妙法蓮華経です。  法華経の文上本門は、機根が整った衆生を仏の悟りに至らせる「脱益」の働きはありますが、機根が整っていない末法の衆生を成仏させることはできないのです。  この「文底事行の一念三千」は、末法弘通のために寿量品の文底に沈め残されました。正法時代の竜樹・天親、像法時代の天台大師は、この大法を心中では知っていたが、弘めることをしなかったのです(正像未弘)。 *池田名誉会長の開目抄講義から **「文底の一念三千」は生命を無限に輝かす法  寿量品の「文底」に秘沈された、真の十界互具・一念三千による凡夫成仏は、「法華経の心」であり、「仏法の肝要」であり、また「宗教の根源」でもあると言えます。  私はこれまで、識者との対談や海外講演で、折に触れて「宗教的精神」や「宗教的なるもの」の大切さを強調してきました。  「宗教的精神」とは、虚無から勇気を、絶望から希望を創造する精神の力であり、また、その力を自他の生命に、そして宇宙の万物に見いだしていく精神です。  どんな苦難や行き詰まりがあっても、自分のなかにそれらを乗り越えていく力があることを信じ、行動し、新しい価値を創造していく魂が宗教的精神です。      ◇  大聖人は、人々が無常なものに執着し、貪・瞋・癡に翻弄されて、不信と憎悪で分断されていく末法の時代は、宗教もまた、原点の宗教的精神を忘れ、人間から遊離して、硬直化し形骸化し細分化されたそれぞれの教義にとらわれ、争いあう時代であると捉えられました(闘諍言訟・白法隠没)。  そして、根源の宗教的精神を復活させなければ、人々も時代も救済できないと考えられたと拝されます。  ゆえに、事実として人間生命に仏界を開いていく真の十界互具・一念三千を「文の底」にまで求めていかれたのです。  だからこそ、人間の生命の永遠性を確かに把握し、人間が現実の行動のなかに永遠性を輝かせゆくことができる事行の一念三千として、文底の一念三千を確立されるに至ったと拝することができます。
>どんな困難をも乗り越える力が自身に備わっている――こう教えているのが日蓮仏法です。学生部員は今、この希望の哲学を胸に「正義・拡大月間」を驀進しています。「学生部年間拝読御書の解説」開目抄第3回では、凡夫成仏の要法である「文底の一念三千」について学びます。 *大意  前回に続き、「五重の相対」を通し諸思想の浅深を判じられています。  前段で論及された儒家・外道の主師親を打ち破り、釈尊こそが真の主師親の三徳を具えた存在であるとされ、「内外相対」の立場から釈尊の一代聖教こそが真実の教えであると示されます。さらに「権実相対」し、法華経のみが釈尊の正言であると述べられます。  そして、「種脱相対」して、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている一念三千こそが、真実の成仏の大法であることを示されるのです。 *内外相対 **幸・不幸の因果を説く仏教  「三には大覚世尊は……皆真実なり」(御書188ページ6行目~13行目)  まず、釈尊こそが「一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田」であると仰せです。  これに比して、外典・外道の四聖・三仙は「三惑未断の凡夫」であり、「因果を弁ざる事嬰児(=赤ん坊)のごとし」であるから、彼らを師としては「生死の大海」を渡ることも、「六道の巷」を超えることもできないと述べられています。  「三惑未断の凡夫」とは「見思惑・塵沙惑・無明惑」という3種の煩悩を断じていない凡夫のこと。「因果を弁ざる事」とは、人間に幸・不幸をもたらす因果(=原因と結果)を的確に説いていないということです。  続いて、釈尊一代の聖教(内道)は、ことごとく真実の言葉、「不妄語」であり、外典・外道と比較すると、多くの衆生を救う「大乗」、嬰児に対する「大人の実語」であると結論されています。 *権実相対 **万人の成仏を説く法華経  「但し仏教に入て……伏して懐うべし」(同188ページ14行目~18行目)  一代聖教のうち、法華経のみが釈尊の真意を説いた経であると仰せです。  法華経以外の大乗諸教(権教)では、二乗や悪人、女性の成仏を否定しています。それに対し、法華経(実教)は、一切衆生が平等に成仏できることを説いているのです。  前段で、釈尊の一代聖教は皆、実語であると仰せでした。しかし、釈尊の一代聖教も子細に分析すれば、そこには「小乗」(少数の人しか救えない低い教え)もあり、「大乗」の中でも「権経」(真実の教えを説くための方便として仮に説かれた経典)もあります。  さらに、「密教」(仏の真意を秘密にして説かれた教え)、あるいは「ソ<鹿の下に鹿2つ>語」(意を尽くさない語)、「妄語」(虚妄の言葉)、「邪見」(誤った考え)もあります。  そのなかで、仏の悟った究極の真理をそのまま明かした法華経のみが真実であると、日蓮大聖人は結論されるのです。  そして、そのことを示す経文として、無量義経の「未顕真実」(法華経以前の四十余年の経教は方便で、仏の悟った真実を明かしていない、との意)と方便品の「要当説真実」(釈尊は久しい間、権教を説いた後、今やまさに必ず仏の悟った真実を説き明かすだろう、との意)という釈尊自身の言葉を示されるとともに、多宝仏・十方分身の諸仏という他仏の証明を示されています。 *種脱相対 **末法の衆生を救う下種の法  「但し此の経に……これをいだ(懐)けり」(同189ページ1行目~3行目)  「二箇の大事」とは、迹門の諸法実相・十如是や二乗作仏によって示された「理の一念三千」と、本門の久遠実成、本国土妙によって示された「事の一念三千」のことです。  この凡夫成仏のカギとなる「一念三千の法門」について、諸宗は“名前さえ知らない”、華厳宗と真言宗は“ひそかに盗み入れて自宗の教義にしている”と弾呵されています。  そして、「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」と仰せです。「一念三千の法門」が、法華経寿量品の文底にのみ秘沈されていることが示された、極めて重要な御文です。  日寛上人は、この「但」の字を三重に冠して拝され、「三重秘伝」の教判を立てられました。  すなわち一念三千は、一代聖教のなかでも「但法華経」(権実相対)、法華経のなかでも「但本門寿量品」(本迹相対)、本門寿量品のなかでも「但文の底」(種脱相対)に秘して伝えられた大法なのです。  法華経は一経ですが、その説かれた法門の深さから、迹門・本門・文底という三層になります。  そして一念三千にも、それぞれに応じて「迹門の理の一念三千」と「本門文上の事の一念三千」と「文底事行の一念三千」の相違があります。  このうち、「文底事行の一念三千」こそ、成仏の究極の要法です。  大聖人は、凡夫の生命に仏界の生命を現す凡夫成仏の道、つまり事実として一念三千・十界互具を実現する道を、寿量品の久遠実成の根底に洞察されました。  この凡夫の生命に仏の生命を現すのが、釈尊を含む一切の仏を成仏させた「下種の法」である南無妙法蓮華経です。  法華経の文上本門は、機根が整った衆生を仏の悟りに至らせる「脱益」の働きはありますが、機根が整っていない末法の衆生を成仏させることはできないのです。  この「文底事行の一念三千」は、末法弘通のために寿量品の文底に沈め残されました。正法時代の竜樹・天親、像法時代の天台大師は、この大法を心中では知っていたが、弘めることをしなかったのです(正像未弘)。 *池田名誉会長の開目抄講義から **「文底の一念三千」は生命を無限に輝かす法  寿量品の「文底」に秘沈された、真の十界互具・一念三千による凡夫成仏は、「法華経の心」であり、「仏法の肝要」であり、また「宗教の根源」でもあると言えます。  私はこれまで、識者との対談や海外講演で、折に触れて「宗教的精神」や「宗教的なるもの」の大切さを強調してきました。  「宗教的精神」とは、虚無から勇気を、絶望から希望を創造する精神の力であり、また、その力を自他の生命に、そして宇宙の万物に見いだしていく精神です。  どんな苦難や行き詰まりがあっても、自分のなかにそれらを乗り越えていく力があることを信じ、行動し、新しい価値を創造していく魂が宗教的精神です。      ◇  大聖人は、人々が無常なものに執着し、貪・瞋・癡に翻弄されて、不信と憎悪で分断されていく末法の時代は、宗教もまた、原点の宗教的精神を忘れ、人間から遊離して、硬直化し形骸化し細分化されたそれぞれの教義にとらわれ、争いあう時代であると捉えられました(闘諍言訟・白法隠没)。  そして、根源の宗教的精神を復活させなければ、人々も時代も救済できないと考えられたと拝されます。  ゆえに、事実として人間生命に仏界を開いていく真の十界互具・一念三千を「文の底」にまで求めていかれたのです。  だからこそ、人間の生命の永遠性を確かに把握し、人間が現実の行動のなかに永遠性を輝かせゆくことができる事行の一念三千として、文底の一念三千を確立されるに至ったと拝することができます。

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