この作品は、2008年度の初音ミクの誕生日企画「ボカロSS投稿所PS企画”Miku Hatsune”」に投稿された作品です。
作者名は、人気作品アンケートが終了するまで非公開とさせて頂いております。
そのカフェに来たのは一年ぶりだった。
狭い店だ。路地を二本入ったところにある個人経営の小さな店。掲げる看板も質素で、今にして思えば、あの時彼が何故わざわざこの場所を好んでいたのか判らない。
「――なんてこともない、か」
私は小さく呟いて、自嘲めいた笑みを浮かべた。それから、木の扉を押し開ける。
「いらっしゃいませー」
カラカラン、というベルの音と同時に、ウェイトレスの快活な声が出迎えてくれた。そして、もうひとつ。
「いらっしゃい。――ミクちゃん」
少し驚いたようなマスターは、けれどそう言って目を細めてくれた。
◆
「驚いたよ。本当に久しぶりだね」
カウンターに腰掛けた私に、マスターは微笑んでくれた。一年ぶりの笑顔。ウェイトレスはアルバイトなのだろう。変わってしまっていたけれど。
「一年ぶり、だからね」
「そうか。もうそんなに経っちゃうか」
目を細めて頷いて、それからマスターはふっと短く息を吐いた。
「さて。何にする?」
注文を尋ねるときのいつもの無愛想な声に、小さく笑って。
「エスプレッソ」
あの時覚えた味を、告げた。
◆
彼と出逢ったのは高校に入ってすぐの頃で、ふたつ年上の彼に、私は舞い上がっていたのかもしれない。付き合い始めてすぐ、私は彼と私自身との差を思い知らされた。
言ってしまえば、たぶん私たちは普通なら重なることのない人生を歩んでいったに違いない。彼は私にないものをたくさん持っていて、その殆どが教師や親が眉を顰めそうなものばかりだった。合唱部の私と、軽音楽部の彼。ほんの少しだけ重なっているようで、実のところさっぱり正反対の私たちが出逢ったのはこの場所でだった。
通学路を少しそれた場所にあるこの喫茶店は、同じ制服を見ることは殆どなくて、けれどあの日、彼はこの喫茶店の隅で不機嫌そうにカップを傾けていた。
扉を開けたまま驚いて足を止めた私に眼をやって、彼もまた驚いていたのを、私は今でも覚えている。
「ここ来る奴、俺だけだと思ってた」
呟かれた言葉に、私は反射的に「私も」と小さく返していて、マスターが私たちの会話に吹き出した。
それが、全ての始まりだった。
学校で見る彼は少し怖くて、私は校舎内では彼に近づけなかった。着崩した制服も、授業をサボる癖も、私とは遠いところにいるようでついていけなかったのだ。
「ミク、何であの人と付き合ってんの?」
ともだちの問いかけに首を捻るばかりだった。
私だって判らないよ、と。
ただ、彼は優しかった。そして何より、刺激的だった。
私はたぶん、世間様一般でいうところの「いい子」だった。これまでずっとそうだった。制服を着崩したこともなければ、学校をサボったことも、教師に逆らったこともない。模範的な優等生。
ただそれを、心から望んでいたのかと問われると疑問が残る。
別に優等生でいたかったわけじゃない。ただ、いつの間にかそうなっていて、私はそれ以外の私を知らなかった。平凡で、真っ直ぐなだけの道を歩いていた。
だから、でもあるのだろう。私が彼に惹かれたわけは。
彼は私の知らない世界を見せてくれた。
それは多くチープな場所でもあったけれど、そのどれもが新鮮で刺激的だった。
そして彼の笑顔が好きだった。くだらない子どもじみたことに真剣になり、大きな口を開けて笑う。そんな感情表現の豊かな彼がたまらなく好きだった。
私は彼にいろんなことを教わり、そしていろんなことを与えられた。
そして彼は、この場所を愛していた。
この古ぼけた小さな喫茶店を、何故だか愛していた。
◆
「ほら、ミクちゃん。エスプレッソ」
「ありがと」
カウンターに置かれた小さなデミタスカップに、スプーンで砂糖をそそぐ。かちゃかちゃとかき混ぜるスプーンの小さな音が、耳に優しかった。
「それ、最初に君が頼んだときのことまだ覚えてるよ」
「マスター。忘れていいよ」
「やだね」
にやりと笑って、マスター。むぅ。酷い話だ。少しだけ睨みあげてからカップを口に運ぶ。苦味と甘みが混在して喉を通っていく。ふわりと、鼻に残る香ばしさ。
ほとんど紅茶専門だった私が珈琲に手を出したのも、彼の影響だった。
アメリカンは何とか判ったけれど、それ以外のメニューはカタカナの呪文みたいで判らなくていつも躊躇していた。ある日彼と一緒のときに思いきって頼んでみたのがこのエスプレッソで、そのカップの小ささに私は驚いて、そして彼は私の様子を見て笑っていた。
その全てが、もう一年も前のこと。
「美味しい?」
「うん」
頷いて二口目をすする。カップの中身はもうほとんどなくなっていた。
小さくて、少し刺激的で、でも甘い。
とっても濃い、三口程度のカップの中身は――
「似てるな」
「え?」
思わず漏れた独り言に、マスターが首を傾げる。小さく肩を竦めて、笑った。
「なんでもないよ」
マスターは曖昧に笑ってから、ふっと視線を喫茶店の隅へと投げた。
そこはいつも、彼が座っていた場所。
「元気でやっているのかな」
マスターの言葉は、私にかけられたものではなく、たぶんさっきの私自身の言葉と同じく独り言の類だったのだろう。それでも、消えていく言の葉の端を掴みたくて私は告げていた。
「きっと、元気だよ」
彼と付き合っていたのは、本当に短い時間だった。
その短い時間の終わりは唐突で、今でも私は理解できていない。
あの日――あの夏の終わりの日。
彼は唐突に私の……いや、皆の前から姿を消した。
◆
退学届けだけが学校に届けられていて、携帯電話も契約が切られていた。
彼は家族から離れて一人暮らしをしていたけれどそのアパートももぬけの殻で、彼の消息は忽然と消えた。
呆然とする私の元に訪れてきたのは、彼の友人や教師だけでなく、彼の家族までもだった。泣いたり、戸惑ったりする全ての人の前で、私はただ無力に知りません、と答えるしかなかった。
縋るようにこの場所に来たけれど、マスターも何も知らなかった。
その日から、私はこの場所にも彼とよく行った映画館やゲームセンターにも行かなくなった。
そうして一年目の今日、ようやく少しは落ち着いて私はこの店の扉を潜ることが出来た。
まだほんのりとカップの中で揺れるエスプレッソを見下ろして、考える。
この場所を、彼が好いていた理由。
どう考えたってここは学校の彼を知る人たちからしたら、彼の居場所ではないだろう。それでも彼はここを愛していたと思う。何故だろう。
思えば、単純な理由かもしれない。
私自身が「優等生」の私自身を望んでいたわけではないのと同じように、彼だっていつもの彼自身を望んでいたとは限らない。鼻をくすぐる珈琲の香りが満ちるこの空間は、もしかしたらそんな虚勢さえ溶かしてくれていたのかもしれない。
その場所からも消えた彼は、何を求め、何処へ行ったのか。そして私は、彼のその心の隙間を生めることが出来なかったのか。自問する日は早く過ぎて行ったけれど、答えは結局今も見つからない。
だけどなんとなく、そう、なんとなく、思っている。
彼は、この場所だけはきっと、捨てられないんじゃないだろうか、と。
家族や、友人や、私も捨てることは出来ても、本当の自分を曝け出すことのできる空間を捨てるのは、きっと彼には出来ないのではないだろうか、と。
だから、私はここに来た。そうして、あの頃と同じようにマスターとくだらない会話を交わし、カップを傾ける。
三口目。ほんの僅かなエスプレッソを飲み干したとき、背後でベルがなる音が聞こえた。
目の前のマスターが目を細める。私はカップを置いて、ゆっくりと振り返った。
まだ鼻をくすぐる香りに浸りながら。
「おかえりなさい」
――Fin.