ごぞんじ、綿矢りさの芥川賞受賞作。
主人公は高校一年生の「ハツ」という女子。彼女は、入学して間もないというのに、はやくもクラスでは浮いた存在になっている。浮く理由は簡単で、自分からすすんで周りを遠ざけているからだ。同級生や先輩、先生のふるまい、特に意味のないおしゃべりをしたり、他愛もないことで笑いあったりなどの、人付き合いを円滑にしようというコミュニケーション上の努力のことをバカにしているのだ。そして、私は違う、おかしくもないことで笑ったりしないし、くだらない話はしないし、どうでもいいやつとつるむのなんてまっぴらだ。そう思いながら、いつでもつまらなそうな顔をして、たまに誰かがいったことで笑いそうになっても、無理やり笑いを我慢する。相手の機嫌をとろうとしたり、気をひこうとしたり、先生だっていい年して生徒に媚びるようなまねをして、どうしてこいつらはこんなに分かりやすく白々しい茶番を、あたかもそこになにか重要な意味でもあるかのごとく、毎日飽きもせずに繰り返すことができるんだろう。そう思いながら、授業中プリントを細かく破って、気だるさをデモンストレーションするのに余念がない。ははは。一言で言えば「自意識過剰」。けれど、きっと彼女はそんな風に一言で自分を評されることを死ぬほど嫌うはずだ。
同じクラスに、ハツと同じような、人間関係の輪からはみ出してしまった生徒がもう一人いる。こちらは男子で、苗字を「にな川」という。おそらく漢字で書けば「蜷川」なのだが、ハツからすると「蜷」の字は「かたつむりを連想させる」難しい字なので、彼女の一人称で語られているこの小説内では「にな川」という表記が通されている。そのにな川もやはり学校では孤立し、勉学や部活に勤しむわけでもなく、ただひたすら時間が過ぎるのを待っているような存在だ。ただ、ハツとは逆に自意識というものが欠落しているのではないかと思われる。少なくともハツの眼にはそう写るらしい。たとえば、にな川は授業中に女性向けファッション雑誌を一心不乱に読みふける。彼は「オリチャン」というファッションモデルのファンで、ほぼ一日中そのことばかり考え続けているのだが、それにしたって、これはかなり危険な行為だろう。クラスの「余り物」である男子が、そんな雑誌を熱心に読んでいる様子がどういうふうに周囲の眼に映るか。しかし「にな川」はあくまで周囲には無関心である(ように見える)。
これは想像だけれど、ハツは他人から自分のことを「わかる」と言われてもたいして嬉しくないだろう。その一方で「わからない」と言われると悪い気はしないはずだ。そして「わかってない」と言われると、たぶん逆上するのではないだろうか。
彼女は周囲の人間の様子、特に他人に同調して行動することを、わかりやすいだけで中身がないものとして軽蔑している。だから、他人に同調することをやめた自分が「わかりやすい」人たちから「わからない」人と扱われることは当然である。むしろ自分が単純な人間ではないことが証明された気がして得意な気持ちもするだろう。こうした「わかりやすい(けど本当は何もわかってない)人/わからない(ように見えて実はよくわかっている)人」の対立によって自尊心を満たしている、そして現時点ではそれしかないハツにとって、「わかってない」と言われることは全否定に等しい。
ところが、にな川という男のやることなすこと、ハツの自意識が張り巡らす「わかりやすい」検出網に全くといっていいほどひっかからない。かといって、彼はハツと同じ「わからない(ように見えてよくわかっている)人」でもない。にな川に対してはハツがこれまでいつも周囲に当てはめてきた図式が使えないのである。それでハツはにな川に関心を持つ。
この小説では、事件らしい事件はなにも起こらない。ちょっとした感情の起伏と、何かが起きそうな気配だけがある。それらは、既存の言葉を使って(ハツは嫌がるだろうけど)「わかりやすく」分類しようと思えばできなくもない。現にハツの唯一の友人である絹代は、ハツとにな川の仲をいつも恋愛関係の枠組みで解釈しようとする。けれど、少なくともハツとしては、まだまだ「恋」やその他のわかりやすい言葉で呼ぶ必要のない、呼ぶわけにはいかない、正体知れずの「蹴りたい」気持ちを抱えている。その気持ちは、急いで名指ししようとしても、名付けようと意識するそばから変化してしまう微妙な段階にあって、ちょうど夜明け前の空の色調のようだ。
ありものでは容易に満足しないハツが、膨らんだ自意識の下からようやく芽生えつつある自分の感情と欲求をどう育てるのか。着陸点はどこなのか。この自意識の続きを読んでみたい気はするのだけど、なぜか、夜が明けきってしまえば今度は厚い雲が出てくるようにも感じられて、どうも複雑な気分である。
今回はアップが大変遅くなってしまってすみませんでした。和泉さん、「か」でお願いします。