映画『レナードの朝』の原作『めざめ』を書いたアメリカの脳神経科医オリバー・サックスの手による。二十四篇の症例を基にしたレポート。紹介文には「メディカル・エッセイ」とある。
感想は書きにくい一冊。
24人の患者が登場するけれど、共通しているのは脳神経の問題に起因する病気を患っているということぐらいで、症例はまちまちだ。表題にもあるとおり、「妻を帽子と間違えて被ろうと手を掛ける」音楽家の、人間の顔つきだけが認識できなくなる症例。子供の頃に聴いた音楽が脳内に繰り返し繰り返し、我慢できないほどの音量で鳴り響く、ある夫人の症例(まぼろしの音楽が騒々しくて、人の会話が聞き取れないことすらある)。二十歳そこそこまでの記憶は鮮明に残っているが、その後は数分程度しか記憶が持続しない壮年の元海軍軍人……
24人の患者が登場するけれど、共通しているのは脳神経の問題に起因する病気を患っているということぐらいで、症例はまちまちだ。表題にもあるとおり、「妻を帽子と間違えて被ろうと手を掛ける」音楽家の、人間の顔つきだけが認識できなくなる症例。子供の頃に聴いた音楽が脳内に繰り返し繰り返し、我慢できないほどの音量で鳴り響く、ある夫人の症例(まぼろしの音楽が騒々しくて、人の会話が聞き取れないことすらある)。二十歳そこそこまでの記憶は鮮明に残っているが、その後は数分程度しか記憶が持続しない壮年の元海軍軍人……
サックスの患者たちの症例はどれも興味深く、恐ろしい。
というのは、人間が精神的に生きるということ、つまり世界を認識し、思考することが、脳という一つの器官で行われていることが赤裸々に描かれているからだ。人間の認識の根幹にあるのは「脳」でしかない。
だから、世界を認識している器官である「脳」が物理的に傷つけられると、見える世界そのものがすべて違って見えてしまう。ドラッグでトリップ中に見えた世界から「戻ってくる」ことなく、死ぬまで恐怖におびえながら――あるいは多幸感にまみれながら――生きることを余儀なくされたりする(症例もある。それだけじゃない)。
イーガンの「しあわせの理由」や、映画「メメント」の世界。四肢や臓器に障害を負うのと、脳に障害を負うのは、質的にあまりにも違う。世界の認識のフレームそのものが異なってしまうんだから。
というのは、人間が精神的に生きるということ、つまり世界を認識し、思考することが、脳という一つの器官で行われていることが赤裸々に描かれているからだ。人間の認識の根幹にあるのは「脳」でしかない。
だから、世界を認識している器官である「脳」が物理的に傷つけられると、見える世界そのものがすべて違って見えてしまう。ドラッグでトリップ中に見えた世界から「戻ってくる」ことなく、死ぬまで恐怖におびえながら――あるいは多幸感にまみれながら――生きることを余儀なくされたりする(症例もある。それだけじゃない)。
イーガンの「しあわせの理由」や、映画「メメント」の世界。四肢や臓器に障害を負うのと、脳に障害を負うのは、質的にあまりにも違う。世界の認識のフレームそのものが異なってしまうんだから。
たとえば、それが際だっていたのは、所謂「イディオ・サヴァン(知恵遅れの天才)」である双子のジョンとマイケルのエピソードだ。彼らは、知能指数で言えば60そこそこなのに、数学的直感能力だけは異常に優れていて、数万年先のイースターが何月何日になるかをぴたりと言い当てることができる。
彼らの会話を聞いていたサックスが、驚くべきことに気づく。部屋の片隅で謎めいた微笑を浮かべながら、二人は六桁の数を言い合って頷きあっている。その数をメモして持ち帰り、調べてみるとすべて素数だったのだ、という。(そしてサックスは、数表を片手に彼らの「ゲーム」に参戦して、二人に驚かれるのだが)
知能指数60の彼らに見えていた世界はなんなのか。サックスは、音楽が直感されうるものであるように、彼らには数(数字は数を表したもので、「数」そのものではない)が直感的に、図像的に認識されているのではないか、という。
彼らの会話を聞いていたサックスが、驚くべきことに気づく。部屋の片隅で謎めいた微笑を浮かべながら、二人は六桁の数を言い合って頷きあっている。その数をメモして持ち帰り、調べてみるとすべて素数だったのだ、という。(そしてサックスは、数表を片手に彼らの「ゲーム」に参戦して、二人に驚かれるのだが)
知能指数60の彼らに見えていた世界はなんなのか。サックスは、音楽が直感されうるものであるように、彼らには数(数字は数を表したもので、「数」そのものではない)が直感的に、図像的に認識されているのではないか、という。
<blockquote>ただとトッホ<small>(引用者注・18世紀の音楽家、どんな長い数をも旋律に変え記憶したという)</small>とちがうのは、この二人は数を音楽に変えるのではなく、数を「かたちあるもの」として、「調子(トーン)」として、直感的にとらえている点である。自然はもろもろのかたちによって成り立っているが、そういったかたちのひとつとしてとらえられている。彼らは計算家ではない。けっして数を勘定する人間ではない。彼らにとって数は図像的なのである。彼らの目の前には、数、数、数でできたふしぎな景色がある。それらのなかに二人は住んでいる。数でできた大きな風景のなかを、彼らは自由に歩きまわっている。中身は数だけといった大きな世界を、あたかも劇を創作するように、彼らは創造したのである。<div alaign="right">(p348-349)</div></blockquote>
彼らに見えている世界はどのようなものか。推して測ることはできても、まざまざと、リアルな想像をすることは私にはできない。そこにはきっと、彼らなりの秩序や、彼らなりの正しさ、豊かさ、面白さがあるのだろうけれど、通常の脳の持ち主には(ふつう)どうしてもたどり着けない世界にはちがいない。
それはやはり魅力的だけれど、とても恐ろしくもある。
救いがあるとすれば、善きにしろ悪しきにしろ、脳機能に障害があり、治癒する見込みがない彼らであっても、環境を整え、適切な医療処置を取り、愛情を持って見守り、時に手助けをしていけば、安定した「かれらなりの幸せな世界」を気づくことは必ずしも不可能ではない、ということだ。著者の姿勢に通底しているのは、冷静な観察力を保ちつつも、医者として、患者の治癒へむかう愛情ある眼差しで、もちろんそれがあっての恢復ではあろうと思うけれども。
たぶん、「考える動物」として人間というものを考えてみるのに最適な一冊。
ものすごくオススメです。
ものすごくオススメです。