「星野智幸最高傑作」とオビにはあるけど、星野智幸に限定せず、傑作だと言おう。
言葉を交わすようにサッカーボールを蹴りあっていた二人の少女、虹子とクロエ。彼女たちが二十年の歳月を経て再会するまでの物語。
無人島に引きこもる「吸血鬼」ユウジ、二十年間月経がないクロエの胎内で成長し続けていた「胎児」、プリズムで分裂する五人の虹子。幻想的で魅力的なガジェットが登場して、惹きこまれる。でも、虹子とクロエの周りに存在するそれらは物語に幻想的な色付けをするためだけにあるわけじゃない。彼女たちの置かれた状況を的確に反映する。過去の自分の選択や、決定を直視しないできた二十年間を。
無人島に引きこもる「吸血鬼」ユウジ、二十年間月経がないクロエの胎内で成長し続けていた「胎児」、プリズムで分裂する五人の虹子。幻想的で魅力的なガジェットが登場して、惹きこまれる。でも、虹子とクロエの周りに存在するそれらは物語に幻想的な色付けをするためだけにあるわけじゃない。彼女たちの置かれた状況を的確に反映する。過去の自分の選択や、決定を直視しないできた二十年間を。
「40歳を越えたいまからでも、大人になることはまだできるのか?」作者自らがいみじくも独白している。二十年の空白を経た二人の女が(そして男が)、その空白に気づき、「大人」になろう、と、「子供が真似るだけの価値ある人間という意味で、まともな親であろう、と」思って、物語は終わる。「「おとな」が大人になること」。
今の自分は32歳だけれど、子供のころに想像していた「三十代の大人」ではない。いや、もちろん大人を装って、大人が振舞うように振舞うこともできる。極力、社長らしい振る舞い、「ヤンエグ」らしい格好には距離を置いて生きてはきたけれど、それでも必要があれば、ベンチャー企業の社長風にスーツを着て、相応に内容のあるようなことを語ったりすることができるようにはなった。社会性を引き受けていくように振舞うこと、それに慣れた。
でも、世界と向き合い、自分で物事の責任を引き受けて進めていくことが本当にできるのか、子供のころの自分の夢想した──あるいは、自分に子供がいたとして、そのときに見せたい姿であるような「大人」で在り果せているのか、と自分に問うと、項垂れるほかはない。
でも、世界と向き合い、自分で物事の責任を引き受けて進めていくことが本当にできるのか、子供のころの自分の夢想した──あるいは、自分に子供がいたとして、そのときに見せたい姿であるような「大人」で在り果せているのか、と自分に問うと、項垂れるほかはない。
でもべつにこの物語は、「大人のなり方」を順を追ってなぞっていくものではない。クロエも虹子も、四十を目前にして、「大人」ではないことに気づく。逆に言えば、彼女たちが同窓会で出会ったかつての同級生たちのように、おおくの人は、「大人」とされるフォーマットに沿って振舞うことはできても、「大人」の内実を備えておらず、それに気づいてすらいない。
気づくこと。
この小説を読んで、良かった。
気づくこと。
この小説を読んで、良かった。
とてもよい作品だけれど、「謎が解決してないじゃないか!」「アレとアレは結局どうなったんだ!」というレベルで読んでしまうと、読み終わって苛苛するだろうなあ。
いろいろ考えながら小説を読むのが好きな人にお奨め。面白いです。
いろいろ考えながら小説を読むのが好きな人にお奨め。面白いです。
追記。
最初にこのタイトルを見て「ダフニスとクロエ」? とか思ったんだけど、違うのかな。「黒衣=くろえ」という名にほかの寓意が含まれてるのかもしれないけど、読み取れなかったなあ。謎だ。
最初にこのタイトルを見て「ダフニスとクロエ」? とか思ったんだけど、違うのかな。「黒衣=くろえ」という名にほかの寓意が含まれてるのかもしれないけど、読み取れなかったなあ。謎だ。
そんなわけで竹田さん、次は「り」でお願いします。(いきなり酷いパス)