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    <title>逃げの一手 </title>
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    <description>逃げの一手 </description>

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    <title>虎の威</title>
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    <description>
      &amp;bold(){『虎の威を読む前に』}
　虎の威は、2ｃｈ（pinkbbs）に存在する『猫耳少女と召使の物語』というスレッドの、
多くの作者が共有するシェアワールドの作品として書かれた作品です。
　それなので、シェアワールドの設定を知らないと、一部意味が分からない部分があるかもしれません。
　もし、他の作者様の書かれた作品や、世界の細かい設定が知りたい方は、
[[こちら&gt;http://www9.atwiki.jp/nekomimi-mirror/pages/1.html]]からごらんになる事ができます（18禁：2ｃｈ系注意）。

|BGCOLOR(#BEBEBE):話数|BGCOLOR(#BEBEBE):タイトル|BGCOLOR(#BEBEBE):概要|
|[[1&gt;虎の威1]]|&amp;size(12px){落ちモノ拾い}|バラム×チヒロ（未遂）|
|[[2&gt;虎の威2]]|&amp;size(12px){ペットの扱い方}|ペットに家族がいたのを知ってますか？|
|[[3&gt;虎の威3]]|&amp;size(12px){珍獣取り扱い注意}|イシュ×チヒロ（百合）三馬鹿×チヒロ（未遂）|
|[[4&gt;虎の威4]]|&amp;size(12px){ペットは家族}|トラの強さとヒトの弱さ|
|[[5&gt;虎の威5]]|&amp;size(12px){仕事をください}|飼い犬でも保健所につれてかれます|
|[[6&gt;虎の威6]]|&amp;size(12px){お役に立つでしょ？}|千宏はもと経済学部|
|[[7&gt;虎の威7]]|&amp;size(12px){発情期来る}|ペットには構いすぎるとうざがられます|
|[[8&gt;虎の威8]]|&amp;size(12px){エクカフ}|アカブ×チヒロ（フェラのみ）|
|[[9&gt;虎の威9]]|&amp;size(12px){仲直り}|猫は縄張りの中にいれば安心です|
|[[10&gt;虎の威10]]|&amp;size(12px){幸せすぎる}|アカブ×チヒロ|
|[[11&gt;虎の威11]]|&amp;size(12px){箱庭の幸せ}|笑ってないとだめになる|
|[[11-2&gt;虎の威11－2]]|&amp;size(12px){温泉で熱燗}|ずっといっしょにいる|
|[[12&gt;虎の威12]]|&amp;size(12px){箱庭は幸せ}|バラム×チヒロ|
|[[13&gt;虎の威13]]|&amp;size(12px){あたしを食べて}|アカブ×チヒロ|
|[[14&gt;虎の威14]]|&amp;size(12px){エピローグ}|これが私の家族です|
|[[？&gt;虎の威語り]]|&amp;size(12px){あとがき}|読まなくてもこまらない|
|BGCOLOR(#BEBEBE):|BGCOLOR(#BEBEBE):続編|BGCOLOR(#BEBEBE):|
|[[1&gt;続・虎の威1]]|&amp;size(12px){捨てイヌ}|路地裏で雨に濡れた捨てイヌを拾いました|
|[[2&gt;続・虎の威2]]|&amp;size(12px){馬鹿みたい}|努力なんかしてないくせに|
|[[3&gt;続・虎の威3]]|&amp;size(12px){苦笑い}|不安になるのはあたりまえ|
|[[4&gt;続・虎の威4]]|&amp;size(12px){海鮮！　シャコの活けづくり}|シャコ×チヒロ|
|[[5&gt;続・虎の威5]]|&amp;size(12px){遺跡の街}|Gの付く黒い悪魔|
|[[6&gt;続・虎の威6]]|&amp;size(12px){友達の条件}|カエル×チヒロ|
|[[7&gt;続・虎の威7]]|&amp;size(12px){意地と誇り}|カブラとカアシュの中学生日記|
|[[8&gt;続・虎の威8]]|&amp;size(12px){雷雨}|千宏がテペウに連れて行かれる|
|[[9&gt;続・虎の威9]]|&amp;size(12px){テペウという男}|テペウは半女性恐怖症|
|[[10&gt;続・虎の威10]]|&amp;size(12px){お仕事}|テペウ×チヒロ|
|[[11&gt;続・虎の威11]]|&amp;size(12px){カアシュの脚}|ちょいグロ表現あり|
|[[12&gt;続・虎の威12]]|&amp;size(12px){ブラウカッツェ}|港町に到着|
|[[13&gt;続・虎の威13]]|&amp;size(12px){転機}|意地の終わり|
|[[14&gt;続・虎の威14]]|&amp;size(12px){無関係という関係}|がっつりがっぽり|
|[[15&gt;続・虎の威15]]|&amp;size(12px){仕事}|ブルック×千宏|
|[[16&gt;続・虎の威16]]|&amp;size(12px){あと一人}|ショタタコ×千宏|
|[[17&gt;続・虎の威17]]|&amp;size(12px){どんなお気持ち？}|意地と誇りの押し付け合い|
|[[18&gt;続・虎の威18]]|&amp;size(12px){首都へ}|そして決別|
|[[19&gt;続・虎の威19]]|&amp;size(12px){縋る手}|お買い物|
|[[20&gt;続・虎の威20]]|&amp;size(12px){トラの巣}|盗賊のお仕事|
|[[21&gt;続・虎の威21]]|&amp;size(12px){コウヤ}|ヒトがヒトを買うことについて|
|[[22&gt;続・虎の威22]]|&amp;size(12px){２つの事例}|大切にしているつもり|


|BGCOLOR(#BEBEBE):タイトル|BGCOLOR(#BEBEBE):概要|
|[[愛の賛歌（笑）&gt;虎の威外伝1]]|馬鹿エロ祭り参加企画。ギャグエロ&amp;br()パルマ×千宏・アカブ×千宏・バラム×パルマ|
|[[美しくない兄弟愛&gt;虎の威外伝2]]|ホワイトデー。ホモギャグ&amp;br()アカブ×バラム|
|[[媚薬クッキー&gt;虎の威外伝3]]|ギャグエロ&amp;br()アカブ×千宏|    </description>
    <dc:date>2012-01-10T03:52:53+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/1.html">
    <title>トップページ</title>
    <link>http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/1.html</link>
    <description>
      *&amp;size(30px){逃げの一手}

ようこそいらっしゃいました。
『逃げの一手』は健全とは言いがたい、完全オリジナル小説サイトです。
エロがメインではありませんが、文章中に&amp;SIZE(120%){&amp;COLOR(#FF0000){&#039;&#039;１８歳未満の青少年に相応しくない成人向け表現&#039;&#039;}}も含まれるため、肉体的または精神的に18歳に到達していない方の閲覧はご遠慮願います。

【注意事項】
■当サイトに掲載される文章の一部には、２ちゃんねる（PINKBBS）エロパロ板に
　掲載されていた物を含んでいます。

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■当サイトは&amp;SIZE(120%){&amp;COLOR(#FF0000){&#039;&#039;文章による成人向け表現を含むため、&#039;&#039;}}
&amp;SIZE(120%){&amp;COLOR(#FF0000){&#039;&#039;１８歳未満の方の閲覧はご遠慮願います。&#039;&#039;}}

携帯の方は[[コチラ&gt;メニュー]]から

ちょっと一言
「虎の威強化月間」

|BGCOLOR(#E8E8E8):&amp;size(14px){【更新履歴】&amp;br()1月10日――ＳＳ置き場＞[[虎の威]]＞[[22話&gt;続・虎の威22]]&amp;br()12月31日――ＳＳ置き場＞[[虎の威]]＞[[21話&gt;続・虎の威21]]&amp;br()12月22日――拍手一個追加&amp;br()12月16日――[[傭兵パン屋物]]＞[[帰郷編11&gt;傭兵パン屋物22]]&amp;br()11月24日――[[傭兵パン屋物]]＞[[帰郷編10&gt;傭兵パン屋物21]]&amp;br()11月13日――[[生贄の森]]＞[[生贄の森9]]&amp;br()10月18日――[[生贄の森]]＞[[生贄の森8]]&amp;br()10月11日――[[ＳＳ置き場]]＞[[魔女と傭兵2]]&amp;br()10月2日――ＳＳ置き場＞[[傭兵パン屋物]]＞[[看護師ニーナの都会旅行（後）]]&amp;br()9月7日――ＳＳ置き場＞[[傭兵パン屋物]]＞[[看護師ニーナの都会旅行（中）]]&amp;br()9月4日――ＳＳ置き場＞[[傭兵パン屋物]]＞[[看護師ニーナの都会旅行（前）]]&amp;br()8月23日――ＳＳ置き場＞[[虎の威]]＞[[20話&gt;続・虎の威20]]&amp;br()7月2日――ＳＳ置き場＞[[生贄の森]]＞[[二章の2&gt;生贄の森7]]&amp;br()6月25日――ＳＳ置き場＞[[生贄の森]]＞[[二章の1&gt;生贄の森6]]&amp;br()5月21日――ＳＳ置き場＞[[傭兵パン屋物]]＞[[帰郷編9&gt;傭兵パン屋物20]]&amp;br()5月5日――ＳＳ置き場＞[[傭兵パン屋物]]＞[[看護師ニーナのハロウィーン（後）]]&amp;br()4月15日――ＳＳ置き場＞[[エセ軍人物]]＞[[ウィルクロ8]]&amp;br()3月27日――ＳＳ置き場＞[[傭兵パン屋物]]＞[[看護師ニーナのハロウィーン（中）]]&amp;br()(07)１０月１9日――サイト設立}|

■登録検索エンジン■
[[サーファーズパラダイス&gt;http://www.surpara.com/?no=78904]]
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管理人：Ｓの対極
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&amp;html(&lt;!--shinobi1--&gt;&lt;script type=&quot;text/javascript&quot; src=&quot;http://x4.rakugan.com/ufo/047395200&quot;&gt;&lt;/script&gt;&lt;noscript&gt;&lt;a href=&quot;http://x4.rakugan.com/bin/gg?047395200&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;img src=&quot;http://x4.rakugan.com/bin/ll?047395200&quot; border=&quot;0&quot;&gt;&lt;/a&gt;&lt;br&gt;&lt;span style=&quot;font-size:9px&quot;&gt;[PR] &lt;a href=&quot;http://hannou.rental-rental.net&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;飯能 一戸建て&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/noscript&gt;&lt;!--shinobi2--&gt;)

.    </description>
    <dc:date>2012-01-10T03:49:16+09:00</dc:date>
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    <title>続・虎の威22</title>
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    <description>
      
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;　揺り起こされ、千宏は目を覚ました。&lt;br /&gt;
　目を覚ましてようやく、自分が眠っていたのだと気付く。&lt;br /&gt;
　ゆるゆると目を開いて、千宏は間近に迫ったハンスの顔に驚きの声を上げようとしたが、毛むくじゃらの大きな手に阻まれてももがもがと妙な音がこぼれるに留まった。&lt;br /&gt;
　しい、とハンスが細く息を吐き出した。声を出すなということだろう。千宏がこくこくと頷くと、ハンスは慎重に口を塞ぐ手をどけた。&lt;br /&gt;
「逃げるぞ」&lt;br /&gt;
　何があったのか、と問うより先に紙片に書き記された短い言葉を突きつけられ、千宏は寝ぼけた頭を軽く振ってまず窓の外を見た。&lt;br /&gt;
　どうやら、すでに夜中である。到着した時はまだ日が傾き始めるかどうかという時刻だったはずなのに、随分と熟睡してしまったようだった。&lt;br /&gt;
「逃げるって……」&lt;br /&gt;
　ほぼ唇を動かして問うだけで、ハンスは声を出さずとも千宏の言葉を聞きとることが出来た。唇を読んでいるわけではなく、微妙な呼吸音が言葉に聞こえるのだという。特別な訓練などつまずとも、イヌならば誰にだってできることだとハンスはつまらなそうに答えたが、それが種族的な特技だろうと千宏は素直に凄いと思う。&lt;br /&gt;
　ハンスはぴんと立てた耳で廊下の音を伺いながら、声を低く殺して早口に言った。&lt;br /&gt;
「トラの盗賊は性質が悪いと言っただろう。今なら奴も油断して眠ってる。取り返しが付かなくなる前にここを出るんだ」&lt;br /&gt;
　今すぐに、とハンスは珍しく強い口調で千宏を促した。&lt;br /&gt;
　会話をした限りではそこまで性質の悪い人物には思えなかったが、ハンスがここまで言うのなら、なるほど余程の事態なのだろうと千宏は腰を浮かせかけ――ふと、コウヤと呼ばれた男の顔が頭に浮かんで動きを止めた。&lt;br /&gt;
　もう一人一緒に連れては行けないかと聞いたら、きっとハンスは鼻の頭に皺を寄せて絶対にダメだと言うのだろう。&lt;br /&gt;
　千宏一人を守るだけで精一杯――それすらも担い切れるかどうか危ういのだと、ハンスは常々苦い表情で繰り返している。&lt;br /&gt;
　そもそも、一緒に連れて行ってどうしようというのか。コウヤの意思がそこに存在しなければ、彼をここから連れ出すことは単なる拉致だ。&lt;br /&gt;
　だがもし一緒に逃げようと声をかけたら、彼は頷いてくれるのだろうか。&lt;br /&gt;
　頭を振って立ち上がり、千宏は促されるままハンスの背に負ぶさった。危険な場所で、親が子を背負うような物である。前はみっともないから嫌だとごねた千宏だが、その方が守りやすいのだと言われては従うしかない。&lt;br /&gt;
　ハンスは千宏を背負ったままするりと窓から抜け出すと、あっという間に屋外の暗闇へと紛れ込んだ。&lt;br /&gt;
　さすがに元盗賊だけあって鮮やかなものだと千宏が内心で呟くと、ハンスが急に立ち止まって忌々しげに罵り声を上げた。&lt;br /&gt;
「どうりで、無用心にぐーすか寝てるわけだ……！」&lt;br /&gt;
「どういうこと？」&lt;br /&gt;
「トラップだ。倉庫一帯を囲んでびっしりとな。トラの許可がなければ、俺たちはこの敷地から出られない」&lt;br /&gt;
　千宏は闇しか見えない荒地の彼方に視線を投げた。深い森のはるか向うに、ちらちらと街道の明かりが見え隠れしている。走ればほんの十分の距離だろう。&lt;br /&gt;
「じゃあ、逃げられないの？」&lt;br /&gt;
「トラップは解除しない限り、術者が死んでも残り続ける。こうして侵入者に寝首を掛かれることを防いでるんだろう」&lt;br /&gt;
　典型的なトラの巣だと短く吐き捨て、ハンスは乱暴に鼻面をこすった。&lt;br /&gt;
　その時、ぽんっとトラヤキがハンスのバッグから飛び出した。そのまま地面に降り立とうとするその体を、ハンスが空中でむんずと捕まえる。&lt;br /&gt;
「大人しくしてろ」&lt;br /&gt;
　もがくトラヤキを腰のバッグに押し戻し出てこられないようにボタンを留め、ハンスは短くため息を吐いた。そのバッグの隙間からぎょろりとした瞳を覗かせ、トラヤキが物言いたげにじっとハンスを睨む。&lt;br /&gt;
　しかしハンスが再び倉庫に向かうと、ふてくされたように目を閉じてバッグの中でもぞもぞと丸まってしまった。危なくトラップに掛かるところを救ってもらったと言うのに、恩知らず極まる態度である。&lt;br /&gt;
　千宏が寝ていた部屋に戻って、並んでベッドに腰を下ろす。今にも頭を抱えてしまいそうなハンスの顔をひょいと覗き込み、千宏は情けなく丸まった背中を軽く叩いて微笑んだ。&lt;br /&gt;
「ハンス、大丈夫だよ。明日、シャエクが起きたらトラップ解除してもらおう。顔の傷治したいって言えば、すぐに帰してもらえるって」&lt;br /&gt;
「さすがに楽観的すぎる……」&lt;br /&gt;
「悲観することが多すぎてね」&lt;br /&gt;
　冗談めかして肩を竦めとハンスは低く唸り声を上げ、とうとう頭を抱えてしまった。どうせまた過去の自分の行動を、取り返しも付かないのに内心で責め立てているのだろう。あの時こうしていれば、ああしていればと、ハンスはいつもくよくよと考える。&lt;br /&gt;
「あのさ」&lt;br /&gt;
　靴を脱いでベッドに乗りあがり、毛布を手繰り寄せながら、千宏は頭を抱えたまま動かないハンスの背に呼びかけた。&lt;br /&gt;
　ハンスは返事を返さなかったが、ピンとたった片耳が千宏の問いの続きを待っている。&lt;br /&gt;
「ハンスだけなら逃げられたりするの？」&lt;br /&gt;
「無理だ」&lt;br /&gt;
　即答であった。そして、&lt;br /&gt;
「あんたを置いて逃げたら生きられない」&lt;br /&gt;
　職を失うから、という意味ではないだろう。実にイヌらしい模範的な回答だったが、その忠誠心とも言える言動に感動するよりも呆れる千宏である。&lt;br /&gt;
「そもそも、危険なのは俺じゃない」&lt;br /&gt;
　顔を上げて、ハンスは濁った沼色の瞳で千宏を見据えた。&lt;br /&gt;
「逃げたのが俺なら、奴は追わない。トラはイヌになんぞ興味を持たないからな。奴が欲しがるのはあんただ――女だ」&lt;br /&gt;
「露骨だなぁ」&lt;br /&gt;
「それが男で、盗賊で、トラだ。あんたがトラだろうが、ヒトだろうが、ネズミだろうが関係ない。トラが一度手中に入れた女をみすみす逃がすなんて事はあり得ないんだ」&lt;br /&gt;
「好意的な雰囲気で一発やらせてあげたら？」&lt;br /&gt;
「ヒトだとばれずにか？」&lt;br /&gt;
　鋭く睨まれて、千宏は苦笑いと共に毛布を身体に巻きつけた。それからハンスの背に自らの背を預け、壁を眺めながら膝を抱える。&lt;br /&gt;
「けどハンス一人なら逃げられるならさ」&lt;br /&gt;
「チヒロ」&lt;br /&gt;
「いや、ネコに助けてもらえないかなーって。街道は走ってすぐだし、お金は一応あるわけだし。いくらかつかませたら役人が何とかしてくれるんじゃない？　惜しいけど、また溜められない額じゃない」&lt;br /&gt;
　そうすればコウヤも現状から解き放つことが出来るし、自分達の連れだと偽って引き取ることも出来るかもしれない。&lt;br /&gt;
　背中合わせのまま、ハンスが頭を振る気配がした。&lt;br /&gt;
「ここはネコの国だぞ、チヒロ。有料街道の近くに、トラの巣だ。こいつらが結託してないわけがない。金で動いてくれる可能性もあるだろうが……そんな賭けには出られない」&lt;br /&gt;
　盗賊と役人の結託はネコの国では珍しい話ではないようで、シャエクと顔すら合わせていないはずのハンスは当然のように状況を理解していた。さすが、ネコの国で盗賊をしていた男である。&lt;br /&gt;
　それじゃあ、と。千宏は首を反らせてハンスの背に頭を預けた。&lt;br /&gt;
「守ってもらうしかないね、ハンスに」&lt;br /&gt;
　千宏の言葉に自信を持って応と言える性格ならば、こうも悲観的になりはしないだろう。案の定、ハンスは肩を落として再び頭を抱えてしまった。&lt;br /&gt;
　どうにも頼りにならないと思うのは事実だが、自己卑下と自虐主義は性分なのだから仕方がない。ハンスは全力を尽くしてくれているし、無茶な要求ばかりする千宏を無事今まで生きながらえさせてくれているのだ。&lt;br /&gt;
　自信に満ち溢れているハンスなど、逆に不安になってしまうような気もする。&lt;br /&gt;
「ねえ、かっこいい事しようか」&lt;br /&gt;
　ふと思い立って、千宏は体ごとハンスに振り向いた。ハンスはうなだれた様子のまま首だけで千宏に振り返り、どういうことかと視線で問う。&lt;br /&gt;
「クールな守護者といたいけな少女ごっこ。まずハンスが毛布をかぶるわけよ」&lt;br /&gt;
　言って、千宏はハンスの肩に毛布をかぶせ、ひょいとベッドから降り立った。そのまま、わけが分からずオロオロとしているハンスの足の間に座りなおし、毛布の前をかき合わせる。&lt;br /&gt;
「剣を抜いて、あたしの正面に突き立てる。両手は重ねて柄の上ね」&lt;br /&gt;
「こ、こうか？」&lt;br /&gt;
「ほーら、超頼もしい！　どっからでもあたしを守れそう。ファンタジー漫画でよくあるシーンだよ」&lt;br /&gt;
　ぐるりと首を巡らせて、千宏は困り顔のハンスに笑いかけた。&lt;br /&gt;
　背中からハンスに抱きこまれ、正面には白刃の輝く剣。その上から暖かな毛布で包まれて、居心地はなかなか悪くない。&lt;br /&gt;
　一つ難点を挙げるとすれば、少々気を抜くと剣で足を切ってしまいそうなところだろうか。&lt;br /&gt;
「この状態で一夜を明かすのか……？」&lt;br /&gt;
「そういうことになってるね」&lt;br /&gt;
「これだと咄嗟の襲撃のとき動けないだろう。暖を取るには最適かもしれないが……」&lt;br /&gt;
　足の間に千宏がいては、立ち上がることもままならないのは間違いない。何か間違えただろうか。そうえば、大体においてこの体勢は屋外の野宿でこそ真価を発揮していたような気がする。屋内だろうと屋外だろうと、動きにくいことに代わりは無いかもしれないが、それではこれは寒さをしのぐ為の体勢だったのか。&lt;br /&gt;
　そういえばこの体勢が発動する状況は野宿である上、雪が降っている場合が多かったような気もする。&lt;br /&gt;
「じゃあどんな体勢だったら動きやすくて、あたしをクールに安全に守りながら世を明かせるわけ？」&lt;br /&gt;
「あんたが寝ている間、窓と扉が見える位置で剣を持って眠らず見張る」&lt;br /&gt;
　つまらない正論を吐くなと視線で責めると、ハンスは剣の柄に両手を乗せたまま難しい顔で真剣に悩み始めた。それからしばらく二人であれこれと試してみたが、結局しっくりくる形が見つからぬままに空が白み始め、千宏は諦めて投げやりにベッドに寝転がった。&lt;br /&gt;
「現実と理想の差は大きいね」&lt;br /&gt;
「すまん……」&lt;br /&gt;
「結局、いつもの寝方が一番か」&lt;br /&gt;
　千宏がベッドを叩いて促すと、ハンスはしおれた様子で剣を鞘に戻し、千宏を抱くようにして横たわった。剣は手に届く位置に置き、盗まれないよう紐で腕に繋いでおく。&lt;br /&gt;
　こうしておけば千宏一人が襲撃を受けることはないし、ハンスが異変を察知すればすぐに千宏を起こすことができる。切迫した状況ならば、抱き上げることも容易い。&lt;br /&gt;
「少し眠ろう。護衛が寝不足じゃ心配だし、これならトラの巣でも少しは安心でしょ？」&lt;br /&gt;
「それはそうかもしれないが……」&lt;br /&gt;
「大丈夫大丈夫。さすがに行き成り襲い掛かられて、二人とも永遠に目覚めることはありませんでしたなんて事にはならないって」&lt;br /&gt;
「楽観的だな……」&lt;br /&gt;
　そんな事態になる可能性などいくらだってあるのだとしばらく頑張っていたハンスだが、結局折れて不承不承目を閉じた。ハンスはいつでも、目を閉じた瞬間には静かな寝息を立て始める。激しく揺れる船の中だろうと、やかましい汽笛が延々鳴り響く駅舎の側の宿だろうと、ハンスにとっては穏やかな揺り籠となんら違い無いらしい。&lt;br /&gt;
「羨ましいね、純粋に……」&lt;br /&gt;
　嫌味のつもりで言った千宏だったが、目を閉じた次の瞬間、千宏もあっけなく眠りに落ちていた。&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;***&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;
　気が付くと、冷たい床の上に寝転がっていた。剥げ落ちた壁の破片がじゃりじゃりと不愉快で、全身がぎしぎしと軋んで痛む。&lt;br /&gt;
　何度か目を瞬き、コウヤはようやく自分が椅子から落ちたのかと理解した。&lt;br /&gt;
　戻らなければ。彼が戻ってくる前に、椅子の上に戻らなければならない。&lt;br /&gt;
「座ってろ」&lt;br /&gt;
　と、コウヤを拾ったトラの男は短く命じた。であるから昨晩からずっと椅子に座っていたが、朝を迎えて昼を過ぎ、日が暮れたあたりで気を失ってしまったらしい。&lt;br /&gt;
　この失態を、彼は許しはしないだろう。彼に気付かれる前に、早く。&lt;br /&gt;
「起きたか」&lt;br /&gt;
　声が聞こえて、コウヤはすうと心に暗い幕が掛かるのを意識した。声のほうに視線を巡らせれば、そこには頭に思い描いたとおり、心底楽しそうなトラの男が立っている。&lt;br /&gt;
「なあ、コウヤ。俺は確か座ってろって言ったはずだな？　たったそれだけの命令だったはずだ。なのにお前どういうわけだよ、その様は」&lt;br /&gt;
「申し訳ありません」&lt;br /&gt;
「謝って欲しいんじゃねぇ。俺はただ、命令を聞いて欲しいんだ。なあコウヤ、それとも俺なんかの命令は聞けねぇか？　マダラごときの言うことは、聞く価値がねぇと思ってるのか？」&lt;br /&gt;
　大股で歩み寄る力強い足音に、コウヤはうなだれて頭を振った。その髪を強くつかまれ、乱暴に身体を引き上げられる。&lt;br /&gt;
「答えろ、コウヤ。おまえさんは俺が怖くないのか？」&lt;br /&gt;
「お……そろしい、です……」&lt;br /&gt;
　嘘だった。別に恐ろしくなどない。けれどもそう答えなければこのトラは怒り狂い、コウヤに痛みを与えるだろう。苦痛は好きではなかった。だからコウヤは、トラの望む答えを口にする。&lt;br /&gt;
　トラはつまらなそうに舌打ちし、コウヤを床へと投げ出した。&lt;br /&gt;
　そうして、&lt;br /&gt;
「ほらよ」&lt;br /&gt;
　一切れのパンを投げ渡す。次いでミルクを満たしたコップを地面に置き、トラはコウヤの近くに倒れている椅子を起こして乱暴に腰を下ろした。そうして、コウヤに渡したのと同じパンを、上手くもなさそうに黙々と食べ始める。&lt;br /&gt;
　それを見てようやく、コウヤもパンをひとちぎり口に運んだ。&lt;br /&gt;
　シャエクだ、と。彼がはるか昔に名乗ったのを覚えているが、その名を呼んだ記憶は無い。そもそもコウヤからこの男に声をかけたことなど一度も無かった。これからも無いだろう。こちらからこの男に用は無い。食事すら要求する気は無かった。与えられなければ飢えて死ぬだけである。&lt;br /&gt;
「今日、女が来たろ」&lt;br /&gt;
　柔らかなパンだった。遠い昔に舌を焼けれて味覚はないが、恐らく甘いのだろうと思う。&lt;br /&gt;
「この前話したヒト商人に騙されてここに来ちまったらしいんだがよ、トラにしちゃ貧相な体だが黒髪なんて珍しいし、顔もまあ悪くはねぇ」&lt;br /&gt;
　ミルクを一口飲むとよく冷えていて、食堂を流れ落ちていくのが分かる。ここに来て随分経つようになるが、ようやく胃が固形物を受け入れるようになった。最初は与えられた食べ物を吐き戻してばかりだったが、最後に吐いた記憶はもう随分と前だろう。&lt;br /&gt;
「変な女だよなあ……マダラの俺にも、ヒトのおまえにも大して興味ないみてぇでよ。同族の女を見るのは久しぶりだが、ありゃあやっぱ相当変わってるよなぁ」&lt;br /&gt;
　さらに一口、パンを千切る。物を噛むことにも随分慣れた。最近ではあまり顎が疲れたと感じることもない。ひょっとしたら、パンを食いちぎることもできるだろうか。試してみようと口を開きかけ、やはり千切って口の中に押し込んだ。&lt;br /&gt;
「まいったなぁ」&lt;br /&gt;
　トラはパンを乱暴に口の中に押し込み、ろくに噛みもせずミルクで喉の奥に流し込む。それから思い出したように、チーズをひとかけコウヤに投げ渡した。&lt;br /&gt;
　溶けていないチーズは硬い。トラからすれば柔らかい物だろうが、コウヤには少々荷の重い食べ物だ。投げ返すわけにも行かないので、前歯で少しずつ削って食べる。&lt;br /&gt;
　味が分からないので、おがくずでも食べているような感覚だった。&lt;br /&gt;
「気に入っちまった、あれ。お前の隣にさ、合いそうじゃねえか？　同じ黒髪だしよ。トラ女つっても病弱そうだし」&lt;br /&gt;
　ああ、とトラが面倒そうな声をあげ。だらりと体勢を崩して天井をあおいだ。&lt;br /&gt;
「イヌが邪魔だなぁ。あいつら魔法使うからなぁ。交渉できねぇかなぁ、コウヤ」&lt;br /&gt;
　コウヤは食事の手を止め、顔を上げた。しかしトラにコウヤの返事を待つ様子はなく、天井を見上げたまま嘆くように深いため息を吐いた。&lt;br /&gt;
「欲しいなあ。あれ……」&lt;br /&gt;
　玩具に憧れる子供のような物言いだった。&lt;br /&gt;
　奴隷が増えるのは、コウヤにとって悪いことではない。しばらくはそちらの女に掛かりきりになるだろうし、一人でいられる時間も長くなる。&lt;br /&gt;
　あるいはそのまま忘れられ、ひっそりと死ぬこともあるかもしれない。あくまで可能性の話だが、トラの興味がよそに移ればその可能性はゼロではない。&lt;br /&gt;
　トラが立ち上がり、ふらふらと尻尾を揺らしながら部屋を出て行く。&lt;br /&gt;
「ちゃんと座ってろよ」&lt;br /&gt;
　その言葉を残して、トラは扉を閉めた。遠ざかる足音を聞きながら、コウヤは食事を終えてずるずると椅子へと這い登る。&lt;br /&gt;
　窓の外を見ると、背の高い枯れ木の頂点から五十八度の位置に青い星が光っていた。であるなら、夜明けまで少なくとも六時間はある計算になる。&lt;br /&gt;
　夜はまだ長いようだった。&lt;br /&gt;
 &lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt; &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;　&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/224.html&quot;&gt;前へ&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/div&gt;
&lt;div&gt; &lt;/div&gt;
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    <dc:date>2012-01-10T03:44:42+09:00</dc:date>
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    <title>続・虎の威21</title>
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    <description>
      
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;
　茶色く乾いた大地を蛇行する小さな川が、うっそうと生い茂った雑木林へと流れ込んでいた。&lt;br /&gt;
　荒地の只中に一点だけあるその緑の集合体は、砂地の箱庭に放り込まれた森の玩具のように周囲の景色から浮いている。土地の養分を一点に集中させる技術があるため、荒野に森や畑が点在する景色は別段珍しいものではないのだと前にハンスに説明を受けたが、それでも千宏の目からすると、荒地で無理矢理育ったような緑はひどく滑稽に思えた。&lt;br /&gt;
　魚の跳ねる穏やかな川に、風うねる緑の草原。視界一杯に広がる黒い森に、空を覆う高い山。そういった景色が千宏は好きだ。&lt;br /&gt;
　そこにレンガ造りの建物と、三人の白いトラがいれば申し分ない。可能ならば一人はマダラであるといい。&lt;br /&gt;
　そんなことを思いながら、千宏は隣を歩くトラのマダラを伺い見た。&lt;br /&gt;
「マダラが珍しいか？」&lt;br /&gt;
「あ、いや！　いやその……知り合いにもマダラがいて……」&lt;br /&gt;
　慌てて答えて、千宏はトラから目を反らす。&lt;br /&gt;
「なんか懐かしくて」&lt;br /&gt;
　けれども、じろじろ見られれば不愉快だろう。&lt;br /&gt;
　千宏は視線を正面に戻した。&lt;br /&gt;
　雑木林はもう目前に迫っていた。馬車から様子を伺ったときちらと家屋のような物が見えた気がしたが、近づいてみるとやはり木々に隠れるようにして建物が一つある。&lt;br /&gt;
　随分と大きな建物だった。朽ちて壁が崩れている部分も見られるが、大量の蔦植物に半ば埋もれながらもしっかりとそこに建っている。&lt;br /&gt;
「元は農家の穀物倉庫だ。中はほとんどがらんどうだが、一応家具はそろってる」&lt;br /&gt;
「ベッドも？」&lt;br /&gt;
「軽く十人分はあるぜ」&lt;br /&gt;
　千宏の短い問いかけに、トラは自慢げに尻尾を立てた。盗賊一人がわざわざ十人分のベッドを調達する理由もないので、行商人を襲った結果だろう。とても褒められた行為ではないが、千宏はあえて指摘しなかった。ハンスを手当てし、休ませる場所を提供してもらえるならば、相手がトラの盗賊だろうがネコの王族だろうが構わない。&lt;br /&gt;
　建物をはっきりと視認してから、さらに十分位歩いただろうか。距離はさほどないのだが、ごろごろとした石が多くてどうにも歩きにくかった。馬車に乗っている時は気にならなかったのだが、建物の周囲だけ石の数が異様に多い。&lt;br /&gt;
　まるで、意図的に石を集めてばら撒きでもしたようだった。事実、そうして外部からの侵入者を警戒しているのかもしれない。&lt;br /&gt;
　これだけ足場が悪ければ、音を立てずに歩くことは難しい。奇襲対策にはそれなりの効果を発揮しているのかもしれない。&lt;br /&gt;
　行政が盗賊行為を容認しているのだから警戒する必要などないようにも思えるが、行商人達が金を出し合って傭兵を雇う場合もあるのだろう。&lt;br /&gt;
　事実千宏は、ネズミの御者にそういう類の人間だと思われていたのだ。&lt;br /&gt;
　そういえば――と千宏はここにやってきたいきさつを思い出す。あの猫の商人は、一体どういうつもりで千宏とハンスをここに送り込んだのだろうか。まさか住所を間違えたということもないだろう。&lt;br /&gt;
　昔はここに医者が住んでいたのだろうか？　猫の寿命は異常に長い。五十年前をつい最近だと語るのだから、そんなことがあっても不思議はないのかもしれないと、千宏は内心嘆息した。&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;
　元が穀物倉庫であったという言葉通り、巨大な大扉を抜けて建物の中に入ると、そこにはただただ広大な空間が広がっていた。&lt;br /&gt;
　部屋の左右にいくつか見られる扉は、それぞれ休憩室や管理室、副次的に利用されていたのであろう小規模な倉庫などに繋がっており、それら全てが今ではただの遊戯室や寝室になっているとトラは楽しげに説明した。&lt;br /&gt;
「ようこそ我が城へ。まずはこの重たいのをどうにかしよう。ささやかだが客間がある」&lt;br /&gt;
「客間？」&lt;br /&gt;
「盗賊にだって客はあるんだぜ？」&lt;br /&gt;
　怪訝そうに聞き返した千宏に、トラはどこか嫌そうに言い返す。&lt;br /&gt;
　ハンスを肩に担いで言われるままに小さなドアを開けると、なるほど確かに、そこには簡素な客間があった。&lt;br /&gt;
　ベッドとテーブルセットがあるだけのつまらない部屋だが、体を休めるには十分に事足りる。&lt;br /&gt;
　ハンスの体をベッドに横たえ――と言うより放り出し、千宏は窮屈そうな服のボタンを外して所々黒く焦げ付いた体毛を見て顔を顰めた。ハンスの腰のバッグから、トラヤキが目だけ出してじっとハンスの様子を伺っている。&lt;br /&gt;
　トラヤキも一緒にトラップにかかったはずだが、こちらはなんの怪我もしていないようだった。皮製のバッグの中に入っていたので、影響が及ばなかったのだろう。&lt;br /&gt;
　いつもならばバッグから飛び出してきて、ハンスの胸の上でぽんぽんと飛び跳ね始めるところだが、トラを警戒しているのか身じろぎ一つしなかった。&lt;br /&gt;
「本当に大丈夫なの？」&lt;br /&gt;
「ネズミのジジイだってピンピンしてただろうが」&lt;br /&gt;
「そりゃまあ、そうだけど……」&lt;br /&gt;
「つーかよ、おまえさん、イヌより自分の心配した方がよかねえか？　ボロッボロじゃねぇか。それにその顔の傷」&lt;br /&gt;
「顔？」&lt;br /&gt;
　何のことかと聞き返してからはっとして、千宏は頬に手を当てた。馬車から放り出されたり、ハンスに投げられたりで、ガーゼがいつの間にか剥がれ落ちていたらしい。&lt;br /&gt;
　自分ではどういう状態になっているか確認は出来ないが、顔の傷も含め、トラが眉をひそめる程度にはひどい状態らしかった。&lt;br /&gt;
「またざっくりと抉れたもんだなぁ。ネコと殴りあったのか？」&lt;br /&gt;
「そういうわけじゃないけど、ちょっと事故があって……。ここにくれば医者に会えるって紹介されてきたんだけど、盗賊は医者じゃないもんねえ」&lt;br /&gt;
　突然、トラが足を止めた。釣られて千宏も立ち止まり、複雑そうな表情を浮かべているトラを見上げる。&lt;br /&gt;
「……ヒト商人の紹介か？」&lt;br /&gt;
　千宏はあからさまに顔を顰め、警戒心をあらわにしてトラを睨み付けた。&lt;br /&gt;
「なんであんたが――」&lt;br /&gt;
「ああ待て！　待て待て警戒するな、ちゃんと説明する！　するから！」&lt;br /&gt;
　詰問しかけた千宏の声を、トラが慌てた様子で遮った。千宏をトラだと信じているからなのだろう、この男は千宏の機嫌を損ねたくは無いらしい。&lt;br /&gt;
　理由は明白だった。トラの男は、トラの女に拒まれたら手を出せない。盗賊までもがその理念の中で生きる物かは知らないが、この男がマダラである以上、実力行使に出ようとしても血みどろの死闘に発展することは目に見えていた。&lt;br /&gt;
　あくまで、千宏が本物のトラ女であるのならば――だが。&lt;br /&gt;
　警戒心を緩めず、険しい表情を崩さない千宏に対し、トラはどこか居心地悪げに耳を伏せてぽつぽつと喋りだした。&lt;br /&gt;
「俺は盗賊だからよ、商人の馬車を襲うわけだ。普通はこっちの街道に来た馬車を狙うんだが、たまーに出張して、猫の道の馬車も襲うことがあってな」&lt;br /&gt;
　猫の道とは、察するに有料街道のことだろう。千宏はますます眉間の皺を深くしてトラを睨んだ。&lt;br /&gt;
　その道を通れば絶対に安全であるから、商人たちは金を払ってまで有料街道を使うのだ。であるにもかかわらず、有料街道にまで盗賊が出没してしまっては、その道の利用価値は著しく低下する。商魂逞しいネコが、そんな馬鹿を許すわけが無かった。少なくとも千宏ならば、盗賊を使ってまで道の価値を高めておいてその盗賊に道の価値を下げさせるような真似はしない。&lt;br /&gt;
「そんな目で睨むなって。ちゃんと分かるように説明するから。だからよ、ネコにとっても目障りな商人ってのがさ、いるだろう？　税金を誤魔化しているとか、売っちゃいけねぇ物を売ってるとか。そういう商人の馬車が特定の時間に、特定の場所を通るって情報が時々ふらっと届いてな」&lt;br /&gt;
「情報？　って……誰から」&lt;br /&gt;
　トラは首を傾げる。&lt;br /&gt;
「まあ、役人だろうなあ。直接顔は出さねぇが、手紙がふらっと舞い込むんだ。で、その手紙に書いてある場所と時間だけは猫の道でも警備が甘くなって、馬車が襲われても誰も気が付かないし、駆けつけない」&lt;br /&gt;
　千宏は何度か目を瞬き、わずかに口を開いてすぐさま引き結んだ。&lt;br /&gt;
　言うべき言葉が見つからない。&lt;br /&gt;
　それはつまり、つまり――だ。&lt;br /&gt;
「役人の不利益になる商人を、役人の命令で襲ってるって事？」&lt;br /&gt;
「命令ってわけじゃねぇよ。その手紙は別に無視してもいいんだ。ただ……わかるだろ？　そういう馬車は襲うと美味しいんだ。あこぎに儲けてる奴らがほとんどだから積荷はいいもんばっかだし、生かして返すなんて制約も無い」&lt;br /&gt;
　ネコの国に来て随分と経ったと思うが、ここまでこの国に倫理観を疑ったのは始めてである。悪徳商人を排除したいという気持ちは理解できるが、証拠を掴んで捉えることが出来ないからと言って盗賊に殺させるのはさすがに少々行き過ぎている。&lt;br /&gt;
　消される可能性を知っていながら悪徳に手を染める商人たちも、度の過ぎた拝金主義だとは思うが――。&lt;br /&gt;
「それで、四日くらい前にヒト商人を捕まえてな」&lt;br /&gt;
　言って、トラはあからさまに顔を顰めた。何度か口を開きかけ、言うべき言葉に迷うようにすいと視線を床へと逃がす。&lt;br /&gt;
「酷いもんだった」&lt;br /&gt;
　何が、どう――とトラは口にしなかったが、それでも千宏はするりと理解することが出来た。頬の傷に指をやり、舌の根からこみ上げてくる苦いものを飲み下す。&lt;br /&gt;
「で――だ。俺が奪えるような積荷も無かったし、胸糞悪いんで殺しちまってもいいかと思ったんだけどよ。何でも欲しいものを用意するから助けてくれってあんまり惨めに泣いて頼むんで、だったらトラの女を寄越せって言ったんだ。一週間以内に用意できなかったら、寸刻みにして殺してやるって脅しておいてな」&lt;br /&gt;
　トラの女を、ネコの商人が、盗賊の住処へなど寄越せるわけが無い。それも、たかだか一週間の短期間で。次に馬車が通ったら宣言どおり息の根を止めてやろうと、そう思ったのだとトラは言う。&lt;br /&gt;
　せいぜいそれまで怯えて暮らせば、少しは自分の仕出かした悪魔のような所業の卑劣さが分かるだろうと。&lt;br /&gt;
　それなのに――と千宏に視線を投げて、トラは苦笑いと共に肩を竦めた。&lt;br /&gt;
「あんたが来ちまった」&lt;br /&gt;
「別に来たくて来たわけじゃ……」&lt;br /&gt;
「いや、わかってる、本当にすまん！　とんだとばっちり受けさせちまったなぁ。まさか怪我した女に医者だと吹き込んで来させるとは……」&lt;br /&gt;
　思いもよらなかったんだよと呟いて、トラはへたりと耳を伏せた。それは彫像のように美しいトラのマダラがやる仕草としては少々子供じみており、懐かしい違和感を千宏に呼び起こさせる。&lt;br /&gt;
「俺も治癒魔法とか使えたらよかったんだが、ああいう細かい魔法ってのはみじんも使える気がしねぇ」&lt;br /&gt;
「いい医者なら傷跡も綺麗に消してくれるって言うけど、お金がなぁ……」&lt;br /&gt;
　できることなら、傷跡になってしまう前に治療したい。怪我ならば普通の病院でも治してもらえるが、傷跡を消すとなると途方も無い金額を要求される可能性が高かった。&lt;br /&gt;
　ヒトが抱けるのならば、傷くらい気にしないという客ももちろんいるだろうが、たとえわずかでも商売に差しさわりが出来るのは間違いない。&lt;br /&gt;
　ヒトを買う資金はすでに用意してあるのでそれほど切羽詰って稼がなければならないということも無いのだが、生活するのにも金は要る。&lt;br /&gt;
　ネコの甘言になど乗らず、あのまま街の病院に駆け込んでいればよかったのだ。&lt;br /&gt;
「町に帰ったら、あのネコぎたぎたにしてやる」&lt;br /&gt;
　決意を込めて低く罵ると、トラが笑って応援してくれた。この気さくさは実にトラ的な性格だと思うのだが、どうにもこの男には拭いがたい違和感がある。&lt;br /&gt;
　この世界に落ちてきてたかだか数年しか経っていないのに、トラの何を知っているのだと問われれば答えに詰まるが、トラとはこんなにも――こんなにも、物事に融通の利く性格をしていただろうか。&lt;br /&gt;
　千宏の知っているトラならば、たとえネコの軍団が襲ってくると言われたって決してネコの役人に隷属したりはしなかっただろう。道理を無視した頭の固いプライドという物が、トラの馬鹿馬鹿しくも清々しい一面であると千宏は思っていたのだが、このトラにはそれが無い。&lt;br /&gt;
　ネコ的である、と。トラは侮蔑の意味を込めてよく口にする。そして千宏の目の前に立つこのトラは、まさにネコ的な性格をしていると千宏は思った。&lt;br /&gt;
　無論、口に出すような愚かな真似はしないが。&lt;br /&gt;
「そういや、あんた名は？&lt;br /&gt;
「変な名前だからあんまり答えたくない」&lt;br /&gt;
「なんだそりゃ。笑わねぇから言えって」&lt;br /&gt;
　千宏は小さく息を吐き、絶対に笑うなと念を押すような表情を作ってトラを睨んだ。この前置きをしておけば、トラとしてはあり得ない本名も怪しまれずに本名として名乗ることができる。&lt;br /&gt;
　偽名を名乗るとボロが出ることもあるだろうが、これならば妙な目で見られることもなかった。&lt;br /&gt;
「千宏」&lt;br /&gt;
　短く答えると、案の定トラは驚いたように眉を上げた。しかし深くは追求せず、そうか、とだけ言って破顔する。&lt;br /&gt;
「確かに珍しいが、変ではねぇ」&lt;br /&gt;
「ありきたりなフォローをありがとう。で、そっちは？」&lt;br /&gt;
「シャエクだ。お近づきの印に、いいもん見せてやるよ」&lt;br /&gt;
　子供のように笑って、シャエクと名乗ったトラのマダラは千宏の手を取って駆け出した。&lt;br /&gt;
　ちょっと、と言う間も無く強く手を引かれ、千宏も半ば引きずられるようにして走り出す。&lt;br /&gt;
　広い倉庫を横切って階段を駆け上がり、シャエクは足を止めずに二階に立ち並ぶ扉の一つに勢いよく飛び込んだ。&lt;br /&gt;
「コウヤ！　客人だ！」&lt;br /&gt;
　シャエクが叫ぶ声に一瞬遅れて、千宏も室内へと転がり込む。勢い余って転びそうになるのをどうにか堪えて、ようやくまともに顔を上げるなり千宏は息を凍りつかせた。&lt;br /&gt;
　窓の前に、椅子が一脚。&lt;br /&gt;
　粗末な木の椅子だった。そこに一人、黒髪の男が静かに腰を下ろしている。&lt;br /&gt;
　年は四十の半ばか、若く見ても三十はとうに越えているだろう。伸びた前髪がひどく鬱陶しそうで、無精ひげのせいもあって正確な年齢は分からなかった。&lt;br /&gt;
　ひどく痩せていて、髪と同じく黒い瞳には生気がまるで見出せない。&lt;br /&gt;
　ヒトである。&lt;br /&gt;
　それが、シャエクの呼びかけにだいぶん遅れてのろのろと顔を上げた。&lt;br /&gt;
「俺のヒトだ。商人と会ったって事は、あんたもヒトが欲しかったんだろ？　しかも、正規の店じゃ買えねぇわけありだ。コウヤ、挨拶しろ」&lt;br /&gt;
　一拍。&lt;br /&gt;
　反応の遅い機械のようにゆっくりと口を開き、コウヤはどこも見ていない瞳で、ただ視線だけを漠然と千宏に合わせた。&lt;br /&gt;
「お目にかかれて光栄です。足萎えの私に出来ることがございましたら、何なりとお申し付けください」&lt;br /&gt;
「足……？」&lt;br /&gt;
　思わずこぼれた千宏の言葉に、シャエクはああ、と静かに頷く。&lt;br /&gt;
「腱が切られてるらしくてな、歩けないんだ。三年前に襲った馬車から奪って、それ以来オレが飼ってる」&lt;br /&gt;
　言って、シャエクはどこか気まずそうに千宏を見た。&lt;br /&gt;
「あんま、面白くねぇって顔してんな。男の俺が、若くもねぇオスヒトを拾って飼うなんざ物好きだって思うか？」&lt;br /&gt;
「あ、いや……あたしは……」&lt;br /&gt;
「割といいもんだぜ。会話も出来るし、年くってるぶん泣いて暴れるなんてこともねぇ。この様じゃ仕事はさせられねぇが、逃げ出すなんてこともねぇしな」&lt;br /&gt;
　それに、と表情を緩ませて、シャエクは千宏の耳に唇を寄せて囁いた。&lt;br /&gt;
「たっぷり仕込まれてる分、具合もいい。試したきゃ、今夜一緒に楽しんだっていいんだぜ。足はダメだが腰なら動く」&lt;br /&gt;
　奔放なトラ女として言わなければならない台詞は、瞬時に頭に浮かんできた。だがどうしても、なんど口を開いても喉から声が出てこない。&lt;br /&gt;
　きっとひどい表情をしているだろうと思った。そして事実、シャエクは凍りついたまま一言も喋らない千宏に困惑したように眉をひそめた。&lt;br /&gt;
「なあ、おいチヒロ？　どうした？　こいつが気に入らないか？」&lt;br /&gt;
「ごめん、ちょっと……」&lt;br /&gt;
　息を吸って、千宏は逃げ出すように部屋を飛び出し、廊下の手すりに縋ってこみ上げてくる吐き気を押さえ込んだ。&lt;br /&gt;
「チヒロ！」&lt;br /&gt;
　心配そうに駆け寄ってくるシャエクの顔をまともに見ることが出来ず、チヒロはうつむいたままくぐもった声を出す。&lt;br /&gt;
「少し、具合が悪いみたい。疲れてて……見ての通り、あんまり体強くないんだ。ハンスと一緒に休ませてもらってもいい？」&lt;br /&gt;
　事実千宏の顔色は蒼白であり、じっとりと滲んだ脂汗が切迫した体調不良を物語っていた。シャエクはその様子を見るなりすぐさま千宏の身体を抱え上げ、階下の客間へと駆け込んだ。ハンスとは違う部屋のベッドである。&lt;br /&gt;
　シャエクに触れられたくはなかったが、具合が悪いと主張しておいて介助を強く断るのも不自然だ。相手は盗賊であるのだし、機嫌を損ねるのも出来れば避けたい。&lt;br /&gt;
　横たえられるなり毛布を引き寄せて枕に顔をうずめ、千宏は弱弱しい声で謝罪と感謝の言葉もそこそこに目を閉じた。&lt;br /&gt;
　この世界に来て初めて、飼われているヒトを間近で見たように思う。&lt;br /&gt;
　コウヤと呼ばれた男のあの目、あの顔――昔商人の馬車で見たヒトのそれと全く同じに見えた。恐怖も絶望もない、ただ漠然とした諦めだけがその瞳には色濃くて、とても正面からその瞳を受け止めることができなかった。&lt;br /&gt;
　コウヤが自分と同じオチモノなのか、はたまたこちらで生まれたのかは千宏には分からない。だが誰かがコウヤを売り、買い、壊して、そして奪った。&lt;br /&gt;
　まるで物のように。&lt;br /&gt;
　奴隷であるということはそういうことだ。知識の上では知っていたし、歴史の授業でもさんざんに聞かされた。けれど、理解できるということと、受け入れられるということはまったくの別物である。&lt;br /&gt;
　受け入れられると思っていた。自分はトラなのだと偽って、あの箱庭を故郷と決めて、この世界の人間であるように振舞えると思っていた。&lt;br /&gt;
　だが物のようにヒトを買って――そして、自分はどうするつもりだったのだろう。子供が欲しいと思った。それにはオスヒトが必要だった。&lt;br /&gt;
　だがオスヒトを買った、その後は？　箱庭に連れ帰ればいいのだろう。そもそも買われたヒトには意思を主張する権利などないのだから、飼い主である千宏が全てを決めればいい。そもそも「あとは自由にすればいい」と買ったヒトを放逐したところで、彼らはまた捕まるか、死ぬかするしかないのだから、千宏と共に生きるしか選択肢がないのだ。&lt;br /&gt;
　誰かの保護がなければ、この世界でヒトは生きられない。&lt;br /&gt;
　だから仕方がないのだ。自分で自分の身を守れないヒトには他者の庇護が必要で、売られているヒトは買った人間がその責任を持つべきである。ならばせめて、できる範囲で最高だと思える環境を与え、そこで人生を謳歌してもらうのが最良だ。&lt;br /&gt;
　だがそれは、千宏が最も忌むべき行為ではなかったのか――。&lt;br /&gt;
　ペットとして保護され、甘やかされ、ただ生きることを厭って飛び出してきたのは千宏自身だ。&lt;br /&gt;
　ヒトである自分が、ヒトを買って、ヒトを飼う。その行為の下劣さに、千宏は今まで気付かぬ振りを押し通してきた。&lt;br /&gt;
　自分の尊厳のため、自分の夢のため、他人の尊厳を踏みにじって自分の所有物にしてしまうことを、社会がそうなのだから仕方がないと言い訳をし続けてきた。&lt;br /&gt;
　ヒトである自分が、道端ですれ違うヒトと恋愛をして結婚をすることなんて出来ようはずも無いのだから、売っているヒトを買うしかないではないか――と。&lt;br /&gt;
　事実だ。今もそれは事実であると思っている。&lt;br /&gt;
　だけど、だけれども――。&lt;br /&gt;
「……ったまんなか、ぐしゃぐしゃ……」&lt;br /&gt;
　金でヒトを買ってしまったら、ヒト売買の市場に賛同したことになりはしないか。ヒトがもののように売り買いされている世界を、受け入れ認めたことになりはしないか。&lt;br /&gt;
　しかしそれ以外にどうやって、この世界で同族の男を探すというのだ。オチモノを拾うのをひたすら待つなど馬鹿げている。&lt;br /&gt;
　理想が、現実が、誇りが、尊厳が。&lt;br /&gt;
　全てがひどくいびつだった。それら全てが千宏の中でぐるぐると渦を巻き、頭痛と吐き気で目が回るようだった。&lt;br /&gt;
　ぎゅっと、千宏はバラムにもらったダガーを強く胸に握りこむ。&lt;br /&gt;
　人を安心させようとするように笑う鷹揚な彼の笑みが、今ひどく見たいと思った。&lt;br /&gt;
 &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;　&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/215.html&quot;&gt;前へ&lt;/a&gt; &lt;a href=&quot;http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/225.html&quot;&gt;次へ&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/div&gt;
&lt;div&gt; &lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt; &lt;/div&gt;
    </description>
    <dc:date>2011-12-31T05:39:11+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/102.html">
    <title>傭兵パン屋物</title>
    <link>http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/102.html</link>
    <description>
      &amp;bold(){傭兵パン屋もの（連載中）}

これは[[エセ軍人物]]の続編です。
未読の方は、先に[[エセ軍人物]]を読んだ方がよりお楽しみいただけるかもしれない。
めんどくさい人は[[こちら&gt;エセ軍人早わかり]]。
|BGCOLOR(#BEBEBE):話数|BGCOLOR(#BEBEBE):タイトル|BGCOLOR(#BEBEBE):概要|
|BGCOLOR(#CCCCCC):|BGCOLOR(#CCCCCC):フランシス登場編|BGCOLOR(#CCCCCC):|
|[[1&gt;傭兵パン屋物1]]|&amp;size(12px){町外れの貴公子}|フランシス×クロル　未遂|
|[[2&gt;傭兵パン屋物2]]|&amp;size(12px){不死身の変態}|ややグロ表現有|
|[[3&gt;傭兵パン屋物2-2]]|&amp;size(12px){取引をしましょう}|フランシスの正体が明らかに？|
|[[4&gt;傭兵パン屋物3]]|&amp;size(12px){店長と経理の関係}|ヴィクター×クロル|
|BGCOLOR(#CCCCCC):話数|BGCOLOR(#CCCCCC):クロル家出編|BGCOLOR(#CCCCCC):|
|[[1&gt;傭兵パン屋物4]]|&amp;size(12px){五失点}|ヴィクター+ウィルトス×クロル&amp;br()本番無しエロ撮影|
|[[2&gt;傭兵パン屋物5]]|&amp;size(12px){糞野郎共}|エリーの家にお泊り|
|[[3&gt;傭兵パン屋物6]]|&amp;size(12px){同意を得れば何をしても？}|ヴィクター+ウィルトス×クロル&amp;br()ゴスロリ3P|
|BGCOLOR(#CCCCCC):話数|BGCOLOR(#CCCCCC):ヴィクター浮気編|BGCOLOR(#CCCCCC):|
|[[1&gt;傭兵パン屋物7]]|&amp;size(12px){おまえがいいんだ}|なんで浮気を勧めるんだ|
|[[2&gt;傭兵パン屋物8]]|&amp;size(12px){潔癖な店長と奔放な彼女}|クロル自慰|
|[[3&gt;傭兵パン屋物9]]|&amp;size(12px){お望みの結果}|クロルが倒れる|
|[[4&gt;傭兵パン屋物10]]|&amp;size(12px){無力と言う名の自由}|ヴィクター×クリス　寸止め|
|[[5&gt;傭兵パン屋物11]]|&amp;size(12px){頑なな経理の本心}|ヴィクター×クロル　噛み付き・吸血描写有|
|BGCOLOR(#CCCCCC):話数|BGCOLOR(#CCCCCC):クロル帰郷編|BGCOLOR(#CCCCCC):|
|[[1&gt;傭兵パン屋物12]]|&amp;size(12px){お家に帰ろう}|クロルの実家から手紙が届く|
|[[2&gt;傭兵パン屋物13]]|&amp;size(12px){僕はクロード}|犬とめがねと家出の理由|
|[[3&gt;傭兵パン屋物14]]|&amp;size(12px){早合点}|一人裏庭に追いやられたヴィクター|
|[[4&gt;傭兵パン屋物15]]|&amp;size(12px){量と質を無視しても}|エディーと仲良くなるヴィクター|
|[[5&gt;傭兵パン屋物16]]|&amp;size(12px){おまえの弟だ}|エディーはマティアスが大嫌い|
|[[6&gt;傭兵パン屋物17]]|&amp;size(12px){ただいまがいえなくて}|弟じゃなかった|
|[[7&gt;傭兵パン屋物18]]|&amp;size(12px){偽証被害}|ヴィクターがエディーにハメられる|
|[[8&gt;傭兵パン屋物19]]|&amp;size(12px){瓜二つ}|ヴィクターがエディーの護衛になる|
|[[9&gt;傭兵パン屋物20]]|&amp;size(12px){コルニック症候群}|一番会いたくない男|
|[[10&gt;傭兵パン屋物21]]|&amp;size(12px){セルギス}|人間とゾンビの価値観の齟齬|
|[[11&gt;傭兵パン屋物22]]|&amp;size(12px){住む世界}|ヴィクター×クロルのいわゆる微エロ|


&amp;bold(){傭兵パン屋もの外伝}
|BGCOLOR(#BEBEBE):タイトル|BGCOLOR(#BEBEBE):概要|
|[[男の矜持&gt;傭兵パン屋外伝1]]|パン屋を開店してすぐの頃。&amp;br()ウィルトスだけならまだしも、クロルまで客の少女から&amp;br()プレゼントを手渡されると言う事件にヴィクターはいたく&amp;br()傷ついて――&amp;br()ヴィクター×クロル&amp;br()アンケート企画：ヴィクターとクロルの日常エロ|
|[[正しい玩具の遊び方&gt;傭兵パン屋外伝2]]|ウィルトスは大人のおもちゃ好き。&amp;br()だけどクロルはおもちゃが嫌い。&amp;br()そこでクロルのおもちゃ嫌いを直すべく&amp;br()優しく楽しく遊ぶはずが――&amp;br()ヴィクター+ウィルトス×クロル&amp;br()アンケート企画：ウィルトスとクロルの日常エロ|
|看護師ニーナの恋愛事情&amp;br()[[前編&gt;看護師と情報屋1]]　　[[後編&gt;看護師と情報屋2]]|ウィルトスの差し金で、情報屋フランシスの家へ&amp;br()やってきた看護師ニーナは、見た目だけは美形な&amp;br()フランシスに恋をしてしまい、片思いに身を焼く純愛話&amp;br()――と言えなくもない話&amp;br()フランシス×ニーナ|
|[[看護師ニーナのクリスマス&gt;クリスマス1]]|フランシスとニーナのクリスマス。エセＳＭ&amp;br()クリスマス企画&amp;br()フランシス×ニーナ|
|[[夜のお茶会&gt;傭兵パン屋外伝3]]|外で夜のお茶会を開こうというウィルトスの提案に、&amp;br()半ば無理やり付き合わされることとなったクロル。&amp;br()ウィルトスはクロルを森の奥へと連れて行き――&amp;br()ウィルトス×クロル&amp;br()悪乗り絵茶企画：あおかん|
|[[看護師ニーナのバレンタイン]]|ウィルトスの差し金で、バレンタインに手作りチョコを&amp;br()作ることになったニーナ。バレンタイン企画&amp;br()フランシス×ニーナ|
|看護師ニーナのハロウィーン&amp;br()[[前編&gt;看護師ニーナのハロウィーン（前）]]　　　[[中編&gt;看護師ニーナのハロウィーン（中）]]　　[[後編&gt;看護師ニーナのハロウィーン（後）]]|未知の風習ハロウィンに参加することになったニーナ。&amp;br()ハロウィン企画。エロ無し|
|看護師ニーナの都会旅行&amp;br()[[前編&gt;看護師ニーナの都会旅行（前）]]　　[[中篇&gt;看護師ニーナの都会旅行（中）]]　　　[[後篇&gt;看護師ニーナの都会旅行（後）]]　|車のトランクに詰め込まれて不本意に都会へと&amp;br()やってきたニーナ。30万hitリクエスト企画&amp;br()フランシス×ニーナ|


.    </description>
    <dc:date>2011-12-16T20:28:05+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/223.html">
    <title>傭兵パン屋物22</title>
    <link>http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/223.html</link>
    <description>
      
&lt;p&gt;　それがどれほど屈辱的で、どれほど我慢ならず、どれほど不当だと感じたとしても、長く組んだ仲間の意図が理解できないほどヴィクターは馬鹿ではない。&lt;br /&gt;
　最善策だとクロルは言った。なるほど確かに、クロルが家族に正体を知られたくないと思う以上――いやそうでなくとも　あの状況ならば、エディーの申し出を受け入れ、そのまま監視役を引き受けるのは確かに最善であったと思う。クロルに対して怒りなど抱いていないし、責めようとも思っていない。ただ少々、ウィルトスを殴ってやりたいとは思うが――。&lt;br /&gt;
「とは、言ってもなぁ……」&lt;br /&gt;
　市警団の檻からエディーの屋敷――つまりはクロルの実家へと場所を移し、ヴィクターは裏庭でぼんやりと途方にくれていた。人目を避けた裏庭で、大男がひっそりと座り込む姿はどう見ても怪しげな侵入者だが、人目に触れなければどうということもない。&lt;br /&gt;
　家の中からは、先ほどから自分を探すエディーの怒声がひっきりなしに聞こえてきていた。その声を聞いているだけで頭痛がしてくるようで、ヴィクターは目頭を静かに揉み解す。&lt;br /&gt;
　これが最善策であることはわかっている。だが最善策なのだから仕方がないと素直に受け入れ、与えられた不愉快な仕事を笑顔でこなせるほどには、ヴィクターはできた性格はしていない。&lt;br /&gt;
　その結果の、ささやかな雲隠れだった。昔、仕事から逃げ出して倉庫の裏でぼんやりと時を過ごしていたのと同じような、下らない逃避行動だ。しかしその結果クロルと出会えた事を考えれば、現実逃避も悪いばかりではないとひっそりと自己弁護をするヴィクターである。&lt;br /&gt;
　むろんいつまでも隠れているわけには行かないが――。もうしばらくは、呼びかけに応じてやろうという気は起きそうもなかった。&lt;br /&gt;
「顔が悪いんだ、あの顔が……」&lt;br /&gt;
　壁にだらしなく背を預け、ヴィクターは額をなでる。&lt;br /&gt;
　あまりにも、エディーはクロルに似すぎていた。例えクロルの弟であっても、顔が絶望的に違っていればヴィクターもここまでやりにくくは無かっただろう。身体に傷はつけないまでも、一生消えない心の傷を残すくらいのことは平然としてのけたかもしれない。&lt;br /&gt;
　だがあの顔で勝気に睨まれると、どうにも言葉に詰まって怒りが萎えた。訳知り顔でとうとうと道理を説く表情や仕草の一つ一つが、悪い冗談のようにクロルに似ている。&lt;br /&gt;
　特に、ウィルトスの影響を受ける前のクロルにそっくりなのだ。&lt;br /&gt;
「訓練生時代はもっとこう、可愛げがよ……あったよな……」&lt;br /&gt;
　いつも必死で、どこか孤独で、少しも恐れずに自分を真っ直ぐに見る瞳は子供のように無垢だった。事実子供だったのだろう。十六歳――そう、確かにクロルは子供だった。だが今は、ヴィクターよりもずっと老獪な考え方をする。&lt;br /&gt;
　今のクロルに不満があるわけではない。と、断言すれば嘘になる。だが昔のクロルにだって、それはそれで不満があったのだから、一概にどちらが好きかと言えるようなものでもない。&lt;br /&gt;
「ただもう少し、なぁ……」&lt;br /&gt;
　深いため息を一つ吐き、ヴィクターは首を反らせて空を仰ぐ。&lt;br /&gt;
　――が、空は見えなかった。くるりとした大きな双眸が、ぱちぱちと瞬きながらヴィクターを見下ろしている。&lt;br /&gt;
「何がもう少しなんだ？」&lt;br /&gt;
　エディーである。ヴィクターは声にならない悲鳴を上げて飛びのいた。&lt;br /&gt;
「なんだ、その間の抜けた驚き方は。本気で気付いていなかったのか？　その程度では、元軍人と言っても下っ端の使い走りが関の山だろう。私が暗殺者だったら死んでいたぞ」&lt;br /&gt;
　その呆れと軽蔑を含んだ言葉通り、気付かずに接近を許した自分にヴィクター自身が一番驚いていた。訓練も受けていない子供の足音に、自分が気付けなかったわけがない。意識していなかったのだ。この身体はどうやら、半ばエディーとクロルを同一視しているらしい。&lt;br /&gt;
「どうしてここが分かったんだ――とでも言いたげだな？　なに、屋敷のどこを探しても見つからないのならば、探す場所はもうここしか残っていないというだけの話だ」&lt;br /&gt;
　言いながら、すとん、とヴィクターの隣に腰を下ろす。&lt;br /&gt;
　そうして、&lt;br /&gt;
「……何故隠れたんだ？」&lt;br /&gt;
　壁に背を預けて膝を抱え、ちらと横目でヴィクターを見上げる。その仕草に普段と違う何かを感じ、ヴィクターは目を瞬いた。&lt;br /&gt;
「なんでって……」&lt;br /&gt;
「理由は分かっている！　そうではなくて……逃げ出せただろう。簡単に。隠れる必要などなかったはずだ」&lt;br /&gt;
「理由は分かってるのか……意外だぞ、結構」&lt;br /&gt;
「人間とは、年少者が自分より優れていることを認めたがらない生き物だからな。私にしてやられたことが気に食わないのだろう」&lt;br /&gt;
　ヴィクターは静かに瞼を覆った。この少年とは、一生理解し合える気がしない。&lt;br /&gt;
「いつか見つかると分かっていながら隠れるなど、非合理的だ。それとも、ここにいれば見つからないとでも思っていたのか？」&lt;br /&gt;
「そこまでではねぇけど……」&lt;br /&gt;
　もう少し、見つかるまでに時間が掛かるとは思っていた。ここは樹木や植え込みに隠されて完全に死角になっているし、少なくとも数ヶ月間は人が足を踏み入れた形跡も無い。&lt;br /&gt;
「逃げるわけにはいかねぇが、お前の言いなりになるのも気に食わんから、間を取っての雲隠れだ」&lt;br /&gt;
「逃げるわけにはいかない？」&lt;br /&gt;
　意味を理解しかねたように、エディーが眉をひそめて首を傾げた。&lt;br /&gt;
「……義理堅い性格なのか？」&lt;br /&gt;
　ヴィクターを檻から出したことについて言っているのだろう。ヴィクターは乾いた笑いを零した。&lt;br /&gt;
「てめぇのどこに義理を感じればいいのか予想もつかねぇっつんだよクソガキが。これが俺の仕事なんだよ」&lt;br /&gt;
「私の護衛を仕事にする気はないと言っていただろう」&lt;br /&gt;
「だから、傭兵の仕事だ」&lt;br /&gt;
　ますますわけが分からないと顔を顰めるエディーに、忘れろ、と言い放ってヴィクターは軽く手を振った。これ以上説明してやる義理はないし、する必要もない。&lt;br /&gt;
　寄生された可能性があると話したところで信じないだろうし、信じたところで現状救える手立てが無い。不治の病を告知するのは、少々ヴィクターには荷が重かった。&lt;br /&gt;
「……つまりお前は、お前の都合で私から離れることが出来ない――と。そういうことか？」&lt;br /&gt;
「離れることが出来ないとまでは言ってねぇだろう」&lt;br /&gt;
「いや言った！　それがお前の仕事なのだとな。よし、いいだろう！　お前を私のそばに置いてやる。代わりに、私の命令にはちゃんと従うんだぞ？　いいな！」&lt;br /&gt;
　だめだ。殴ろう。&lt;br /&gt;
　思った時には手が出ていた。エディーはヴィクターの拳を頭に食らい、ぎゃんと喚いて大げさにうずくまる。軽く叩いた程度のものだが、軟弱な貴族のご子息には妥当だろう。&lt;br /&gt;
「い……いたい……」&lt;br /&gt;
　痛みでか、屈辱でかは知らないが、案の定涙目である。&lt;br /&gt;
「てめぇがガキじゃなければ顔面に行ってるところだ」&lt;br /&gt;
「護衛のくせに主人を殴るなど――！」&lt;br /&gt;
　怒鳴りかけたエディーの眼前でひらひらと拳をひらめかせると、二撃目を恐れたのか、エディーがぐっと言葉を飲み込んだ。苦々しい表情でヴィクターの拳をしばし睨み、&lt;br /&gt;
「……暴力は、よくない」&lt;br /&gt;
　一般論を口にする。ヴィクターは軽く笑って拳を下ろした。&lt;br /&gt;
「必要なときもある」&lt;br /&gt;
「暴力が許されるのは、暴力を専門に扱う職業の者が業務上に行使する場合のみだ！　もしくは、暴力を振るわなければ自分に危害が及ぶ場合だ。気に入らない相手を暴力で黙らせようとする行為は、道徳的にも社会的にも法律的にも許されることではない！」&lt;br /&gt;
　正論である。ヴィクターは感心して眉を上げ、しげしげとエディーを見下ろした。&lt;br /&gt;
　そもそも、頭は悪くないのだろう。本を読むのが好きなようだし、勉強も人一倍しているのは間違いない。それだというのに、どうしてこうも人間的に致命的な性格に育ってしまったのか。&lt;br /&gt;
　確かクロルは、父を厳しい人間だと評していたはずだが、エディーを見る限りとてもそうは思えなかった。貴族階級のしつけがどういう物かは知らないが、マティアスの言動から察するに、エディーの性格がこの家にとって好ましい物ではないのも間違いないだろう。&lt;br /&gt;
「おまえよ」&lt;br /&gt;
「……なんだ？」&lt;br /&gt;
「親父さんに殴られたこととかねぇのか？」&lt;br /&gt;
　エディーは大きく目を瞬き、呆れたような目でヴィクターを睨んだ。&lt;br /&gt;
「それは虐待と言うんだぞ、ヴィクター。お父様はそんな愚かなことをする方ではない」&lt;br /&gt;
「しつけと虐待は……」&lt;br /&gt;
「別物だと言うんだろう？　はん！　そんな物、暴力に訴えなければ教育も出来んクズのつまらん言い訳だ！　そもそも私は優秀だからな。お父様は私を叱ったことなど一度も無い」&lt;br /&gt;
　胸を反らして自慢げに言い放ったエディーに、ヴィクターは半ば唖然として聞き返す。&lt;br /&gt;
「一度も？　一度もお前、親父さんに叱られたことがねぇのか！？」&lt;br /&gt;
「何も別に驚くこともあるまい。叱る理由がなかったんだ。私は成績優秀で品行方正な上、危険な遊びもしなかったからな」&lt;br /&gt;
「あー……その態度については……」&lt;br /&gt;
「私の態度のどこに問題がある。無論、目上の者に接する態度くらい心得ている。誰に対してもこうだと思うな。お前は私の護衛で、つまり下僕も同然だ」&lt;br /&gt;
　エディーにとっての目上の者が一体どういった人種を指すのかは分からないが、少なくとも父の客人として訪れた傭兵に向ける礼儀は持ち合わせていないらしい。&lt;br /&gt;
「……姉様は、よくお叱りを受けていたがな」&lt;br /&gt;
　クロルが？　と聞き返しかけて、ヴィクターは慌てて口をつぐむ。そんなヴィクターを訝るような目でしばし眺め、エディーは小さく肩を竦めた。&lt;br /&gt;
「姉ははっきりと物を言う人だったし、勉強よりも外で遊ぶのが好きだった。淑女のつつしみという言葉が何より嫌いで、あてつけのように半ズボンで木登りをしてな。ひどい擦り傷を作って一週間も部屋に閉じ込められたこともある。七歳の頃の記憶など曖昧だが、それでもはっきりと思い出せるくらいには、姉と父はよく衝突していた」&lt;br /&gt;
「そりゃあ……豪儀な姉だな」&lt;br /&gt;
「うん。側転も上手かった」&lt;br /&gt;
「……側転？」&lt;br /&gt;
「そう。こう、横にな、とても綺麗に回るんだ。私は小さい頃あれがとても羨ましくて、教えてくれてせがんでな。廊下で恥じらいもなく足を広げて遊んでいるのを父上に見つかって……」&lt;br /&gt;
　あ、とエディーは声を上げた。それからふいに口元をほころばせ、困ったようにヴィクターから表情を隠して呟いた。&lt;br /&gt;
「ひどく叱られた。姉と一緒に、ひどくな……そう、叱られたんだ。一度だけ。私もお父様に叱られたことがある」&lt;br /&gt;
　ため息を一つ吐き、エディーはおもむろに立ち上がった。&lt;br /&gt;
「さあ、かくれんぼは私の勝ちだ。腹をくくって付いてこい。お前の部屋を用意させたんだ。私の部屋の続き間にな」&lt;br /&gt;
「なに！？　おいちょっと待て、俺は……！」&lt;br /&gt;
「どうせ、そちらの都合で私から離れるわけには行かないんだろう？　それとも夜はあの安宿に帰るというのか？　それで、夜の間に何かあったらどうする」&lt;br /&gt;
「いや、まあ……そりゃ……そうなんだが……」&lt;br /&gt;
　言ってしまえば、傭兵としてのヴィクターの仕事も結局のところはエディーの護衛である。&lt;br /&gt;
　寄生生物に感染した可能性がある以上、いつどこで、どんな状態で倒れるとも限らない。何かが起こったとき、すぐに最善の処置が取れるように、ヴィクターがエディーに付き添っているのだ。&lt;br /&gt;
　マティアスに事情を話して何らかの手段を講じるという手段を考えもしたが、エディーがマティアスの言葉を聞くとも思えないし、マティアスが側によることすら嫌がるのは明白だ。マティアスがつけた護衛すら気に入らないに違いない。家長に話を通してもらえればどうにかなるかもしれないが、過労で倒れている人間にこの上不確定な情報を与えて余計な心労を与えるのも賢い選択とは思えなかった。&lt;br /&gt;
「あー……まあ、そう、だな。そのとおりだ……」&lt;br /&gt;
　認めざるを得まい。&lt;br /&gt;
　ぱっと、エディーが表情を輝かせた。&lt;br /&gt;
「聞き分けがよくてよろしい。ずっと空き部屋だったので少々ホコリっぽいが、家具はそろっているぞ。部屋を繋ぐ扉の鍵は常に開けておくように。許可なく入室することは許さんが、呼んだらすぐに来るんだぞ」&lt;br /&gt;
「世話になるのは二三日だぞ」&lt;br /&gt;
　言いながら、ヴィクターものろのろと立ち上がる。エディーは無邪気に笑って、肩越しにヴィクター振り向いた。&lt;br /&gt;
「どうだか。わからんぞ？　このままずっと、私の護衛として過ごすことになることだってあるかもしれないじゃないか」&lt;br /&gt;
「ねぇよ。阿呆が」&lt;br /&gt;
「主人を阿呆とは――！」&lt;br /&gt;
　何事だ、と怒鳴ろうとしたエディーの声を片手を上げて静かに制し、ヴィクターは近づいてくる車のエンジン音に眉を寄せた。&lt;br /&gt;
「うちの四駆だ」&lt;br /&gt;
「はん？」&lt;br /&gt;
　それが、今まさに屋敷の前に停車したのだ。クロルかウィルトスか知らないが、どちらかがやってきたことになる。&lt;br /&gt;
「仲間が来たのか……？　お前を迎えに？」&lt;br /&gt;
「どうだかな。それはねぇと思うが……」&lt;br /&gt;
　低く唸って、ヴィクターは悪意に目を細めて静かに吐き捨てた。&lt;br /&gt;
「オッサンだったらくびり殺してやる……」&lt;br /&gt;
　粗末な鉄格子の向うから指をさされて馬鹿笑いされたことは、一生忘れぬ恨みとして心に残るに違いない。逆の立場だったら確実に自分も同じ事をしただろうが、それとこれとは話が別だ。&lt;br /&gt;
「おい、冗談にならないぞ、その顔。顔だけで犯罪だぞ」&lt;br /&gt;
「よく聞く台詞をどうも」&lt;br /&gt;
　短く答えてエディーと共に庭へと周ると、そこにはマティアスと親しげに言葉を交わすクロルの姿があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;***&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それじゃあ、エディーは大丈夫なんだね！？」&lt;br /&gt;
　ウィルトスと分かれて市警団の詰め所により、胡乱な視線をたっぷりと浴びながら森の地図を拝借してしばし、クロルは再び実家の門をくぐっていた。無論、半ば変装の意味を成していない、サングラスとフードの間抜けな姿である。&lt;br /&gt;
　呼び鈴を鳴らそうと腕を上げかけたところで丁度マティアスと出くわし、クロルは不安げにおろおろとしている弟をなだめるため、立ち話のままかいつまんで状況を説明した。&lt;br /&gt;
　その報告に喜色満面の笑みを浮かべたマティアスに、クロルは深く頷いて見せる。&lt;br /&gt;
「コルニック症候群なら、一週間くらい町から離れれば寄生生物が死ぬから心配ない。あとは元凶となる害獣を駆除できれば終りだ。エディーもお父様も助かるよ」&lt;br /&gt;
「ああ……よかった」&lt;br /&gt;
　まだコルニック症候群であると断定されたわけではいが、餌を食わないペットの末路と現状を考えればまず間違いはないだろう。そうでなかった場合は完全にお手上げで、死者が増えないうちに軍に連絡を入れて大規模かつ本格的な調査を依頼する以外には無い。&lt;br /&gt;
　でなければ、未曾有のパンデミックが引き起こされる可能性もあるのだ。そうなってしまった場合、軍への報告を先延ばしにした傭兵――すなわちクロルたちも少々まずい立場におかれることになるので、コルニック症候群であることをただ願うばかりである。&lt;br /&gt;
「やっぱり姉さまは、僕が困っているときはいつだって助けてくれる。僕、手紙を出して凄く怖かったんだ。助けを求めても無視されて、姉さまに捨てられたんだって思い知るのがずっとすごく怖くて……」&lt;br /&gt;
　でも、とマティアスはまた笑う。&lt;br /&gt;
「こうして来てくれた」&lt;br /&gt;
「下手な変装姿でね……セルギスに会ったよ。速攻バレた」&lt;br /&gt;
　マティアスは困ったように笑って、クロルのフードに手をかける。&lt;br /&gt;
「だってさすがに無理があるもの。もっとなんとかならなかったの？　これ」&lt;br /&gt;
「時間が無かったんだよ！　僕だって――」&lt;br /&gt;
　本当は、戻ってきたくなんかなかったんだ。と、喉まで出かけて危なく押さえた。姉の帰還をこれほど喜ぶ弟を前にして、これを言ってはあまりに下種だ。&lt;br /&gt;
「急いでたんだよ……ああ、そうだ急いでるんだった。たぶんエディーがヴィクターを連れて帰ってると思うんだけど……」&lt;br /&gt;
　ああ、とマティアスが表情を曇らせる。&lt;br /&gt;
「うん、なんかいなくなっちゃったみたいで、さっきからずっとエディーが探してる。そういえば、怒鳴り声が聞こえなくなったけど……」&lt;br /&gt;
「雲隠れか……くそ、現役時代の十八番を今やらなくてもいいだろうが……！」&lt;br /&gt;
　忌々しげに罵ったクロルの顔に、マティアスが物言いたげにちらと視線を投げた。どうかしたかと視線だけで質問を促すと、マティアスは苦しげに眉を寄せて困ったように髪を弄る。&lt;br /&gt;
「あの……あの人は、その……仕事仲間？」&lt;br /&gt;
「あの人？　って、ヴィクター？」&lt;br /&gt;
　マティアスはまだウィルトスと面識が無いはずだ。ならば、聞いているのはヴィクターについてだろう。仕事仲間かと言えば確かにそうだが、それだけの言葉で説明できるほどよそよそしい関係では決して無い。&lt;br /&gt;
　なので、&lt;br /&gt;
「そうだよ。一緒に暮らしてる」&lt;br /&gt;
　最も関係が伝わりやすいと思われる状況を付け加えて答えると、マティアスは顎を落とした。&lt;br /&gt;
「一緒に！？　それじゃあけ、けけ、結婚してるの！？」&lt;br /&gt;
「結婚！？　僕らが！？」&lt;br /&gt;
　目を剥いて声を裏返したマティアスの言葉に、こちらも声がひっくり返る。&lt;br /&gt;
　クロルは慌てて言い加えた。&lt;br /&gt;
「違う違う！　部屋は別なんだ。寮みたいな感じでさ。傭兵なんかやってるけど、本業は別にあってその関係で一緒に暮らしてるってだけ」&lt;br /&gt;
　実際はそれほど清く正しい関係とは言えないのだが、詳しく説明してはマティアスが卒倒しかねないので、嘘にならない程度に事実のみを伝えておく。何も弟の中の潔癖な姉像を、無理に壊すこともない。セルギスに続いてマティアスにまで幻滅の目を向けられたら、さすがに落ち込まずにはいられまい。&lt;br /&gt;
「それじゃあ、恋人とかじゃないんだね？」&lt;br /&gt;
　念を押すように聞かれて、クロルは軽く手を振って肯定した。&lt;br /&gt;
「そんなんじゃないって、大丈夫。ヴィクターはただの同僚で友達だ。面食いってわけじゃないけど、さすがに僕も容姿を問わずとは言わないからね」&lt;br /&gt;
　冗談めかして笑った瞬間、クロルは冷たい汗が伝うのを感じて無意識に背筋を伸ばした。&lt;br /&gt;
　ひどく、嫌な予感がする。&lt;br /&gt;
　ついと肩越しに背後を振り返り、クロルはどっと脂汗を噴き出させた。&lt;br /&gt;
　十メートルほど先の建物の陰に、ヴィクターの姿があった。エディーも一緒にいることから、雲隠れを切り上げたのだろう。それは素晴らしいことだが、どうしてこのタイミングで現れるのか――怒気を含んだ乾いた笑みを見る限り、今のクロルの言葉は間違いなく聞かれていた。&lt;br /&gt;
　そこそこの距離があるため、エディーには聞かれなかっただろうということがせめてもの幸いか。ヴィクターの聴覚は時折非常に忌々しい。&lt;br /&gt;
　そのまま立ち去ってしまうかとも思ったが、意外にも歩み寄ってきたヴィクターに、クロルはへらりと笑いかけた。&lt;br /&gt;
「あー……ヴィクター。丁度よかった。ちょっと、話が、あってだね……」&lt;br /&gt;
「俺にはねぇな」&lt;br /&gt;
　一蹴である。完全に機嫌を損ねていた。クロルは苦い表情で額を抑え、二人だけで話がしたいとサインを送る。&lt;br /&gt;
　ヴィクターは興味すらなさそうにそれを眺め、すいとエディーに視線を投げた。&lt;br /&gt;
「こいつに聞け。事実上、俺の上官は今、こいつだ」&lt;br /&gt;
「ヴィクター！？」&lt;br /&gt;
　気でも違ったかと半ば叫ぶようにして言うと、ずいとエディーがヴィクターの前に出る。&lt;br /&gt;
　警戒するような視線の中に、しかし明らかな優越感を滲ませながら、エディーはクロルの言葉を今か今かと待っていた。&lt;br /&gt;
　苛立ちを抑えてどうにか無表情を繕い、クロルはヴィクターを指差す。&lt;br /&gt;
「……借りても？」&lt;br /&gt;
　短く訪ねたクロルに対し、エディーの答えもまた短い。&lt;br /&gt;
「断る」&lt;br /&gt;
　クロルは頭を抱えた。&lt;br /&gt;
「仕事に関する重要な話なんだぞヴィクター。遊んでないでついて来い！　マティアス。部屋を用意して、できれば人払いを頼みたい」&lt;br /&gt;
「あ、は、はい！　ただいま！」&lt;br /&gt;
　慌てて屋敷に駆け込んだマティアスを見送って、クロルは視線だけでヴィクターを促した。ヴィクターがつまらなそうに肩を竦めて応じる。&lt;br /&gt;
　すると、エディーがヴィクターの腰にしがみついてその身体を引き止めた。&lt;br /&gt;
「行くなヴィクター！　私の護衛なのだから、ちゃんと私の側にいろ！」&lt;br /&gt;
　クロルはあからさまに顔を顰めた。叱り飛ばそうとしたクロルをヴィクターが手を上げて制し、ぽんぽんとエディーの頭を優しく叩く。&lt;br /&gt;
「部屋にいろ。終わったら迎えに行く」&lt;br /&gt;
「嘘だ！　私を騙す気だろう」&lt;br /&gt;
「だから、逃げねぇ理由はさっき説明しただろうが」&lt;br /&gt;
「けど……！」&lt;br /&gt;
　言い募ろうとした言葉を飲み込んで、エディーは不意にうつむいた。唇を尖らせてぶつぶつと文句をいいながらも、ヴィクターを解放する。&lt;br /&gt;
「約束だぞ。やぶったら鞭で打ってやるからな」&lt;br /&gt;
「あーそう。そらこえぇわ」&lt;br /&gt;
　適当に答えて歩き出したヴィクターの背中に、エディーは慌てたように言い添えた。&lt;br /&gt;
「ま、守れたら褒美をやる！　甘い菓子を用意してやるから、せいぜい感謝するんだな！」&lt;br /&gt;
　エディーの声を背中に聞きながら愉快そうに肩を揺らし、ヴィクターはにやにやと実にだらしのない表情を浮かべてクロルを見た。&lt;br /&gt;
　これ以上の屈辱を味わったことが、未だかつてあっただろうか。家族にかかされる恥ほどどうしようもなく、屈辱的な物はない。　&lt;br /&gt;
「いい弟だな」&lt;br /&gt;
　唇だけで囁いたヴィクターのみぞおちに肘鉄をめり込ませ、クロルはマティアスの後を追って大股で屋敷へと足を踏み入れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　通されたのは、使用人が寝泊りする小さな部屋だった。廊下の一番奥にあり、人払いをしておけばまず誰も近づかない部屋である。&lt;br /&gt;
　人が住んでいる気配は無いので空き部屋なのだろうが、掃除はよく行き届いていた。&lt;br /&gt;
「客間は部屋の位置関係上、人払いが難しくて……」&lt;br /&gt;
　申し訳なさそうに言ったマティアスに、クロルは穏やかに笑いかけた。&lt;br /&gt;
「物置でも文句は無かったんだ。十分すぎるよ、ありがとう」&lt;br /&gt;
「いえ、そんな……」&lt;br /&gt;
　照れくさそうに笑って、マティアスはちらとヴィクターに視線を投げる。不安そうに表情を曇らせて、そっとクロルの耳元に唇を寄せて囁いた。&lt;br /&gt;
　むろん、マティアスがどれほど声を潜めたとしても、ヴィクターには丸聞こえになるのだが。&lt;br /&gt;
「何かあったら、大声出して」&lt;br /&gt;
　苦笑いして、クロルは肩を竦めた。&lt;br /&gt;
　残念ながら、ヴィクターの容姿は爽やかな正義の味方とは程遠い。ああ見えて優しいのだと説明したところで、家庭内暴力に明け暮れる夫を守る弱気な妻にしか見えまい。&lt;br /&gt;
　名残惜しそうに部屋を後にしたマティアスの足音が完全に遠ざかるのを待って、クロルはその、周囲を威圧することに関して天賦の才を持つ男へと振り向いた。&lt;br /&gt;
　無表情を装ってはいるが、空気がピリピリとしていて皮膚に痛い。これは相当怒っているなと、クロルは内心嘆息した。&lt;br /&gt;
「何かあったら、ねぇ？」&lt;br /&gt;
　ほら来た、と口の中で罵って、クロルは大分上にある男の顔を見上げる。するとヴィクターは心持ち腰をかがめ、嫌味ったらしくクロルの瞳を覗き込んだ。&lt;br /&gt;
「一体何があるってんだ？　ただの同僚でお友達のお前に、俺が何かするとでも？」&lt;br /&gt;
「そりゃそんな顔で人のこと睨んでたら、赤の他人でも流血沙汰を心配するよ。先に言っておくけど、謝る気はないからな」&lt;br /&gt;
　謝ってやろうかなどという大人の考えは、たった今ヴィクターの態度と台詞で霧散した。脅されて言いなりになるのは我慢ならない。絶対に一言たりとも謝ってやるものかとぞんざいに前置いたクロルの言葉に、ヴィクターは嘲笑するように口角を吊り上げた。&lt;br /&gt;
「安心しろ。俺も謝られる筋合いはねぇ。てめぇが俺の顔をどー思ってようが関係ねぇし、口の悪い弟の世話を押し付けられたこともなぁんとも思ってねぇよ？　これっぱかしもな」&lt;br /&gt;
「結構！　それじゃあ仕事の話を始めよう」&lt;br /&gt;
　言って、クロルはどっかとソファに腰を下ろした。さすがに硬くてすわり心地はよろしくないが、使用人の部屋でソファが一脚あるだけでも上等である。&lt;br /&gt;
　ベッドも椅子もあるというのに、ヴィクターはドアの横に突っ立ったまま動こうとしなかった。壁に背を預けて腕を組み、じっと対象物を睨んでいるのはヴィクターが不機嫌なときによくやる行動だ。本人としては無意識にやっているらしいので、恐らく獲物を狙う野生動物のような物なのだろう。正直言って、これをやられるとクロルでも精神的にかなりきつい。&lt;br /&gt;
　クロルはヴィクターを視界から締め出しながら、ざっと状況を説明した。&lt;br /&gt;
「状況から考えて、今回の騒動の原因はコルニック症候群だ。八十年前、精神病院で餌を食べないペットが飼育されていたことをウィルが突き止めた」&lt;br /&gt;
「誘引型コルニック症候群？　最後の事例報告は五十年も前だぞ」&lt;br /&gt;
　さすがに驚いたように言ったヴィクターに、クロルも驚いて顔を上げる。&lt;br /&gt;
「君の口からその単語がするっと出るとは思わなかったよ。腐っても元突貫部隊大隊長か」&lt;br /&gt;
「腐ってて悪かったな」&lt;br /&gt;
「突っかかるなよ。ゾンビなのは僕も一緒だ」&lt;br /&gt;
「ゾンビ？」&lt;br /&gt;
　こっちの話だと適当にはぐらかし、クロルは説明を続けた。&lt;br /&gt;
「そのペットは連れてこられてすぐに餓死してるから、最後の力を振り絞って卵を残した可能性が考えられる。八十年前のその卵が、なにかの理由で孵化した可能性が高い。実際、現在過労で倒れてる人たちの親や祖父母のほとんどは元精神病院の関係者だ」&lt;br /&gt;
「親父さんもか？」&lt;br /&gt;
「いや、お父様は違う。たぶん、誰かが過労で死んだときに近くにいたんだろう。エディーと同じ二次感染の方だと思うよ。でなきゃ、卵は僕が受け継いでることになるはずだから、お父様は発病しない。僕がお父様の実の子供でないなら、その限りではないけどね」&lt;br /&gt;
「で、策は？」&lt;br /&gt;
「ウィルが今、ペットの墓を探してる。その位置と害獣の生態から潜伏先にあたりをつけて、捜索・駆除。ウィルなら今夜中には答えを出すだろうから、明日の早朝に捜索を開始して、夜までには片をつけたい。ウィルはあの脚だから一緒に森には入れないし、僕は知っての通り視界が狭い。捜索は君が頼りだ」&lt;br /&gt;
　セルギスが倒れた人達を遠くの病院に移せば、寄生生物との繋がりを切られた害獣は餌の供給を断たれることになる。その結果、新たな餌を得るために寄生生物の卵をばら撒くべく、何らかの行動を起こすに違いない。&lt;br /&gt;
「コルニック症候群なら、もうエディーを監視する必要はないから、このままホテルに帰れるよ。状況はマティアスに説明してあるから、適当な理由をつけて隣町に数日宿泊させれば感染したことにも気付かず終わるはずだ。と言っても、随分エディーになつかれてたみたいだし？　ここにいたいなら別に僕は止めないけどね」&lt;br /&gt;
　嫌味を交えて迎えに来た旨を伝えると、ヴィクターは喜ぶどころかいかにも不快そうに顔を顰めた。&lt;br /&gt;
「マティアスだぁ？　お前、随分とあの野郎と親しげじゃねぇか。お前のことも知ってるみてぇだったしよ。正体は隠しておくんじゃなかったのか？　あいつだけは特別ってか」&lt;br /&gt;
「なんだよそれ、嫉妬のつもり？　純情可憐を通り越してさすがに女々しいぞ。昔からの知り合いかって？　じゃあ教えてやるけどさ、あれが手紙を送ってきた弟だよ」&lt;br /&gt;
　言った瞬間、ヴィクターがあんぐりと顎を落とし、とっくの昔に立ち去ったマティアスの後姿を捜すようにドアへと振り返った。ドアとクロルを交互に見比べ、しばし口を閉じつ開きつしてようやく叫ぶ。&lt;br /&gt;
「な、お……おと、弟！？　どこがだ！？」&lt;br /&gt;
　妙な質問であった。クロルは片眉を吊り上げて呆れ混じりにヴィクターを睨む。&lt;br /&gt;
「似てないって言いたいわけ？」&lt;br /&gt;
「似てないどころの話じゃねぇだろうが！　どう見ても他人じゃねぇか！」&lt;br /&gt;
「まあ他人だからね」&lt;br /&gt;
「からかってんのか、おい」&lt;br /&gt;
「怖い顔するなって。養子なんだよ、あいつ」&lt;br /&gt;
「……ようし？」&lt;br /&gt;
　意味を理解しないまま音だけを口でなぞり、次いでヴィクターは限界まで目を見開いた。&lt;br /&gt;
「養子だと！？」&lt;br /&gt;
「別にビックリするような話はしてないだろ……？　お父様は男の跡取りが欲しかったんだよ。でも僕が生まれてから何年も子供が出来なくて、仕方なく男の子を養子にもらったんだ」&lt;br /&gt;
　クロルが九歳の頃である。待ちに待った二人目の子供も女児であったことから両親は養子を取ることを決意したらしく、ある日四歳のマティアスが連れてこられて、弟だと紹介された。はるか遠縁にあたる伯爵家の末息子で、食うに困るほど没落したその家にいくらか融資することで養子縁組を取り付けたのだと、大人になって漠然と噂で聞いた。&lt;br /&gt;
　ようは、血筋を金で買われてきたような物である。&lt;br /&gt;
「じゃ、エディーは……」&lt;br /&gt;
「別に兄弟が一人とは言ってない」&lt;br /&gt;
「そりゃ……確かに言ってねぇが……」&lt;br /&gt;
　正確には弟はマティアスだけで、エディーは妹なのだが、今のところそれをヴィクターに説明してやるつもりはクロルにはなかった。&lt;br /&gt;
　厄介なことになりそうだ、という漠然とした予想がある。ウィルトスが評したとおり、エディーは明らかにヴィクターにご執心だったし、エディーの顔はクロルに生き写しだ。&lt;br /&gt;
　ヴィクターは信じていないわけではないが、実のところそこまで信用に足る人物だとは思っていないクロルである。意志薄弱と言おうか、とにかく押しに弱いのだ。&lt;br /&gt;
　ヴィクターが何かを仕出かして自己嫌悪に浸るのはどうでもいいが、その結果エディーがキズモノにされることはなんとしても阻止したい。&lt;br /&gt;
　男だと思い込んでいるのなら、そのままにしておいた方が安全だ。どうせ二三日中には町を出るのだし、ヴィクターがエディーの性別を誤解したまま終わる可能性も十分にあえりえる。&lt;br /&gt;
「じゃあよ、ただの弟なら……なんで、誤魔化した……？」&lt;br /&gt;
「ただの同僚で友達だって？　あのねヴィクター。マティアスは、男女が一緒に暮らしてたらイコール結婚だと考えるようなお坊ちゃんだ。おまけに小さい頃に世話を焼きすぎたせいで、未だに僕を妄信してる。そんな弟に、結婚はしてないけど一つ屋根の下に暮らしてるただれた関係のお友達です、なんて君を紹介できるわけないだろ？　それとも、恋人だって言って欲しかったのかい？」&lt;br /&gt;
「そうじゃねぇけどよ……」&lt;br /&gt;
「僕は今の状況に満足してるし、君のことは尊敬してる。正直僕にはもったいないって、今でも思うくらいにね。けどマティアスは――と言うか、この町の人間はそうは思わない。潔癖で貞淑な良家のお嬢様が、傭兵の情婦に堕ちたとでも思われるのが関の山だ。いいさ、誰がそう思おうが僕には関係ない。価値観の違いは説明したところでどうにかなるものじゃないしね。だけど弟は傷つけられない。傷つけたくないんだよ、滑稽に見えるかもしれないけどさ」&lt;br /&gt;
　弟の中にある綺麗な姉の思い出を、今の自分が踏みにじっていい通りは無いとクロルは思う。&lt;br /&gt;
　先ほどセルギスに言われたことが、多少なりとも影響していることは否定できなかった。彼は――彼らは、どうしたって今のクロルを認めてはくれない。&lt;br /&gt;
「住んでた世界が違う、か……」&lt;br /&gt;
「懐かしい台詞だね。昔そう言って僕をいびったのは君だったと思うけど」&lt;br /&gt;
　ここはガキが夢見るような世界とは違うんだ、柔らかいベッドで世界を救う夢でもみてるんだな――と、若すぎる副官として着任したクロルに対し、顔を見るたびに見下し切った発言を連発したのは他ならぬヴィクターである。&lt;br /&gt;
「細けぇこと覚えてんな……結局謝ったんだからいいじゃねぇか」&lt;br /&gt;
「別に責めてないだろ。事実を言ってるだけ。そういうことだから、この町では単なる同僚でお友達を演じさせてもらうよ」&lt;br /&gt;
　ようやく納得したのか、ヴィクターは壁に預けていた背を浮かせて疲れたように首を鳴らした。獲物を視線に捕らえ続けるのは、やっている本人にもそれなりに負荷がかかるらしい。&lt;br /&gt;
　話の終りを見て取ってクロルが立ち上がろうとすると、突如立ちふさがったヴィクターに軽く額を押され、クロルは再びソファに崩れ落ちた。&lt;br /&gt;
「なに？」&lt;br /&gt;
「キス一回」&lt;br /&gt;
「……なに？」&lt;br /&gt;
　咎めるように聞き返すも、聞かずにヴィクターはクロルの肩を押さえ込むように身を伏せる。だが唇が触れる寸前、クロルは短い罵声と共にヴィクターの顔を押しのけた。&lt;br /&gt;
「い、いきなりさかるなこの脳筋が！　今の僕の話聞いてなかったのかよ。この町にいる時は僕は男で、君は同僚のお友達！　男同士はキスしないし、同僚や友達もキスはしない！！」&lt;br /&gt;
「だからキス一回でそれを承諾してやるって言ってんだろうが！　大人しくやらせた方がお互いに傷が浅くて済むぞ、そうだろう曹長？」&lt;br /&gt;
「うわぁその顔にその台詞よくお似合いですね少佐殿……！　嫌だって言ったら嫌だ！　なんで交換条件突きつけてんだよ、どの面下げての交換条件だよ！」&lt;br /&gt;
「誰も見てねぇんだからいいだろうが！　もう二日お前にろくに触ってねぇ上、あと数日は触れねぇんだぞ！　一回補給させろっつってんだ！！」&lt;br /&gt;
「ちょっとは頭を使え、ここは僕実家なんだぞ。そんなところで男といちゃつく趣味は無い！　ほんの二三日我慢できないってどれだけお盛んなんだよ。やめろってほんと、本当に怒るぞ！　やめ――！」&lt;br /&gt;
「大声出すと、マティアスが駆けつけるんじゃなかったか？」&lt;br /&gt;
　あ、と思って一瞬ドアに意識を向けたその隙に、ヴィクターは容易くクロルの両手を一まとめに拘束し、不平を叫ぶ唇に強引に舌をねじ込んだ。&lt;br /&gt;
　完全に力負けである。怒りと屈辱でヴィクターを睨み付けるが、口腔を這い回る舌は生々しく熱く、正直な感想を述べてしまえば心地よい。&lt;br /&gt;
　しかしこのまま流されるのはあまりに癪だ。どうにか逃れようと身を捩るも、ソファに崩れ落ちた体勢ではろくに力も入らない。股間を蹴り上げるのが常套手段だが、多用しすぎて警戒されたのか、ヴィクターの身体は割り開いたクロルの両足の間にあった。&lt;br /&gt;
　万事休すである。あとは舌を噛み千切るくらいしか対抗方法が思いつかないが、さすがにひどいだろうかと躊躇している間に、舌を引きずり出されて強く吸われる。いくらなんでも、ヴィクターの舌と共に自分の舌をも噛み切るほどの情熱は持ち合わせていなかった。&lt;br /&gt;
「んん……は、ふ……っ」&lt;br /&gt;
　一回と言ったくせに、二度三度と深く口付けられる。ここまで来るとクロルも逆らうことが馬鹿馬鹿しくなってきて、絡まる舌の感触を純粋に楽しんでいた。&lt;br /&gt;
　気持ちがいいのだ。悔しいながら、ある意味身体を重ねるよりも、ヴィクターと交わすキスは気持ちがいい。&lt;br /&gt;
　結局そのまま最後まで行ってしまうのがほとんどで、キスだけで終わることなどめったにないのだが――。&lt;br /&gt;
　だからと言って、である。&lt;br /&gt;
「ヴィクター、ちょ、なにやって……」&lt;br /&gt;
　シャツの裾から浸入してきた手を大人しく受け入れてやる道理は無い。クロルが身を捩って拒絶の意思を示すと、ヴィクターはその肩口に顔をうずめてねっとりとうなじを舐め上げた。&lt;br /&gt;
　喉の奥から間の抜けた悲鳴がこぼれ、クロルはいよいよ持って暴れだす。&lt;br /&gt;
「ああもう、だから……やだって、言ったんじゃないか！　触るな！　舐めるかな！！　キスだけって約束、やくそ、く……じゃ、ぁ……ひん……！」&lt;br /&gt;
　耳たぶを甘く噛まれ、その奥へと入り込んでくる濡れた舌の感触に、クロルはたまらずこぼれる甘い声を押さえ込んだ。&lt;br /&gt;
　その様子に気を良くしたのか、かすれた声でヴィクターが小さく笑う。&lt;br /&gt;
「抵抗するからだ。大人しくしてりゃキスだけで済んだのによ」&lt;br /&gt;
「ふざ……け、あ、あ……やだ、や！　さわ……そこ、触るな、触るな……！」&lt;br /&gt;
　大きな手がクロルの腹をまさぐり、腰のラインを楽しむようになで上げながら、小さな膨らみをやわやわと揉みしだく。&lt;br /&gt;
　その先端で尖り始めた敏感な突起に、ヴィクターはからかうように爪の先をかすらせた。その度に素直すぎるほどに肩が跳ね、クロルはいいように扱われる屈辱にますます険しくヴィクターを睨み付けた。&lt;br /&gt;
「ちょ……に、の……なよ」&lt;br /&gt;
　ほぼ言葉になっていない音の羅列に、ヴィクターが顔を上げてクロルの顔を覗き込む。&lt;br /&gt;
「何？」&lt;br /&gt;
「調子に――乗るなつったんだよこのクズ野郎が！！」&lt;br /&gt;
　この瞬間を待っていたとばかりに、クロルは思い切り首を反らせてヴィクターの顔面に渾身の力を込めて己の額を叩き付けた。&lt;br /&gt;
　その瞬間、重機を持ってしても引き剥がせまいというようなヴィクターの拘束が緩み、クロルはその鳩尾に拳をめり込ませるようにしてヴィクターの身体を突き飛ばす。&lt;br /&gt;
　ヴィクターは声にならない苦悶の悲鳴を上げ、巨体を折り曲げてその場にがくりと膝をついた。鼻からか、唇からか、そのはたまたその両方からかおびただしい量の血が溢れ出し、顔を覆ったヴィクターの指の隙間からだらだらと床に滴っている。&lt;br /&gt;
　が、その姿に哀れみなど微塵も感じなかった。このままこの男を殺した方が、世界に平和が訪れるような気すらする。&lt;br /&gt;
「おま、これ……鼻が折れ……！　おおい待て待て落ち着け、椅子はまずい！　椅子で殴るのはさすがに感心できねぇぞ！　せめて灰皿か花瓶にしろ！！」&lt;br /&gt;
　クロルが手近にあった椅子を振り上げたのを見て、ヴィクターはさすがに青ざめて後退った。その側頭部に、クロルは思い切り振りかぶった椅子の背を躊躇なく叩き付けた。&lt;br /&gt;
　どうせ死なない。何せ壁に自ら頭をたたきつけ、自主的に額を割ったこともある男である。&lt;br /&gt;
「ホテルに戻ってきたら、その節操のない股間に銃弾撃ち込んでやるから覚悟しろ。顔も見たくない、このフランシスの同類が！」&lt;br /&gt;
　椅子の背を頭にもろに食らい、血塗れの惨殺死体と成り果てたヴィクターをゴミを見るような目つきで見下ろし、クロルは憤然として部屋を後にした。&lt;br /&gt;
 &lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt; &lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt; &lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/222.html&quot;&gt;前&lt;/a&gt;　　&lt;/div&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
    </description>
    <dc:date>2011-12-16T20:22:51+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/222.html">
    <title>傭兵パン屋物21</title>
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    <description>
      
&lt;p&gt;
 　セルギス・アードラーは、封建制度が根強く残る地方の出身で、広大な荘園を経営する伯爵家の長男だった。この地方では珍しいつややかな黒髪をもっており、昔はそれをからかわれてはひどく憤慨していたのを覚えている。&lt;br /&gt;
　年齢は二十五か二十六だろう。確か自分より三つ上だったはずだから――とクロルは階段で見た神経質な男の顔を思い返した。&lt;br /&gt;
　眉間に深く刻まれたシワに、笑みを浮かべることを忘れたような口元、自分以外の全てを警戒するような瞳には、冷酷さすら浮かんで見えた。であるにもかかわらず、ウィルトスに明らかに礼を失する態度を取られたにも関わらず、眉一つ動かしもしなかった。&lt;br /&gt;
「変わったってうか……あれは……さすがに……」&lt;br /&gt;
　歪んだ、と表現するのが適切だろう。&lt;br /&gt;
　少なくともクロルが町を出る前は、活発ではきはきと物を言う、利発で優しい少年だった。誇りを持って未来を見据え、キラキラと瞳を輝かせながら夢を語った少年が、そのまま育ってああなるとは思いがたい。&lt;br /&gt;
　理由など、想像するのも馬鹿馬鹿しいほどに分かりきっていた。自分と言う存在に揺ぎ無い自信を持っていた十代の少年が、ある日突然婚約者に逃げられたとしたら、それは深くプライドを傷つけられるだろう。今にして思えばたった一言くらい、セルギスに何か言って出てくるべきだったとクロルは後悔していた。&lt;br /&gt;
「ああ、もう……だから帰りたくなかったのに……」&lt;br /&gt;
　自分が周囲に与えた影響を、取り返しが付かなくなってから見せ付けられるのは心が痛む。&lt;br /&gt;
　クロルは手の平に書いた番号をちらと見て、現実逃避も許されない現実に嘆息した。&lt;br /&gt;
　セルギスと二人きりで話をするのは避けたいが、フランシスの声を聞くのも心底嫌だ。名前を聞くだけであの男の顔を、声を、唇を、ねじ込まれた舌や腕を掴んできた指の感触に至るまで、全てが怖気と共に頭に浮かぶ。&lt;br /&gt;
　百匹のゴキブリとフランシス一人、どちらかと一晩密室で過ごすとしたら喜んでゴキブリを選ぶだろう。強姦されかけたことが問題なのではない、とにかくあの男の存在自体がどうしようもないほど気持ちが悪いのだ。&lt;br /&gt;
「ゾンビっぽいのがやなんだよ……噛まれたらなんか感染しそう……」&lt;br /&gt;
　ぞくぞくと肩を震わせながら、クロルはいやいや受話器を手に取った。今ほど電話機という装置を発明した人間を憎んだことはない。&lt;br /&gt;
『はい、こちら番号案内です』&lt;br /&gt;
　呼び出し音に耳を傾けることしばし、クロルの耳に飛び込んできたのは、快活な少女の声だった。予想外の応答に目を瞬き、クロルは聞き覚えのある声にあ、と短く声を上げる。&lt;br /&gt;
「ニーナ？」&lt;br /&gt;
　フランシスの専属看護師である。クロルがフランシスの全身の骨を砕いたおりに雇われたらしいが、どういう成り行きか、すっかり完治しているはずのフランシスの元に今も身をおいているようだ。&lt;br /&gt;
『いえ、番号案内です。ご用件をどうぞ』&lt;br /&gt;
「えーと……あの、フランシスに……」&lt;br /&gt;
『どちらのフランシスさんのお宅におつなぎ致しましょう』&lt;br /&gt;
「もしかして、フランシスに繋いでもらうには何か暗号が必要なシステムだったりするわけ？」&lt;br /&gt;
　ニーナが受話器の向うで、居心地悪そうに口ごもる。&lt;br /&gt;
「ニーナ？」&lt;br /&gt;
『……フランシスさんが寝てるときは、これで乗り切れって言われてるんです……起こすとしばらく不機嫌で面倒くさいんですよ……あ、番号案内の方法だったらちゃんと教わりました！　今の私、結構非合法な番号まで教えられます！』&lt;br /&gt;
　安堵と落胆が同時に押し寄せてきて、クロルは頭を抱えながら深くため息を吐いた。&lt;br /&gt;
「つまり、フランシスは寝てるんだね？　よかった……じゃなくて！　ええと、後でまたかけなお――」&lt;br /&gt;
『何が知りたい』&lt;br /&gt;
　耳に心地いい少女の声から一転して、神経をナメクジが這い回るようなねっとりとした男の声が受話器から耳に滑り込んできて、クロルは喉の奥で引きつった悲鳴を上げた。&lt;br /&gt;
「ふ……フランシス……！？」&lt;br /&gt;
『あぁ……どれだけその声を聞きたかったか……！　お前は声まで甘くて柔らかいな……なあ、パン屋。俺に何が聞きたい？　何でも答えてやる。俺を求めてるんだろう？　さあ早く、早く言え、言ってくれ……！　その声で、早く俺に命令してくれ！』&lt;br /&gt;
　今、目の前に洗面器を持ってきてくれる人間がいたらそいつを愛すると誓ってもいい。クロルは喉までこみ上げてきた胃の内容物をどうにか飲み下し、電話線を引きちぎりたい衝動を必死に堪えて静かに息を吸い込んだ。&lt;br /&gt;
「コルニック症候群に関する情報で……ネブロサスで孵化する可能性のある害獣のリストアップを頼みたい」&lt;br /&gt;
『コルニック症候群……？　ああ、絶滅したと思っていた。あるのか、まだ。パン屋は持ち込む依頼も面白いな。ネブロサスで……そうか……他の動物への寄生は？』&lt;br /&gt;
「半端にある。けど、人間に寄生できなかった最終手段みたいなものみたいで……」&lt;br /&gt;
『今、何を着てる』&lt;br /&gt;
「……はぁ！？」&lt;br /&gt;
『その条件に当てはまる答えは一つだ。お前になら無償で何でも教えたいが、対価を得なければ情報は価値を失う。だから……今、何を着ている？　聞かせてくれ。材質、色、形、肌触。今、何がお前の肌に触れている？　情報の等価交換だ。なあ、いいだろうパン屋？』&lt;br /&gt;
　電話越しに「どんな下着つけてる？」は変態の悪戯の常套句だが、それが情報の対価として要求されるとは夢にも思っていなかった。&lt;br /&gt;
　クロルはわなわなと唇を震わせ、&lt;br /&gt;
「あの、お金で支払いたいんだけど……」&lt;br /&gt;
『嫌だ』&lt;br /&gt;
　取り付く島も無い。&lt;br /&gt;
　クロルはその場で気を失いそうな苦痛に脂汗を滲ませながら、今朝ヴィクターが来ていた服をフランシスに教え、情報を書き留める間も惜しんで叩きつけるように受話器を置いた。&lt;br /&gt;
　ぞくぞくと、つま先から這い上がってくる身震いを一つ。深呼吸で心を落ち着け、クロルは手にしたメモを丸めてポケットにねじ込んだ&lt;br /&gt;
「……安く上がった。そう思おう……」&lt;br /&gt;
　パン屋の経理という視点から見れば、余計な出費が抑えられたと喜ぶべきだろう。通常フランシスという情報機関を利用するには、相応の報酬を要求されるはずだ。&lt;br /&gt;
　情報は得られた。後は、これを駆除するだけである。&lt;br /&gt;
　クロルは結果を報告しにウィルトスの部屋に向かおうとし――トイレに駆け込んで盛大に嘔吐した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
　ほぼ消化されかけた胃の内容物と対面して、ようやくクロルは昼食を食べ損ねていたことに気が付いた。胃がムカムカしていて食欲はわかないが、無理にでも何か胃に入れておかないと体力が続かなくなってしまう。&lt;br /&gt;
　このメモをウィルトスに渡したら、軽くトーストでも食べよう。&lt;br /&gt;
　そう、ウィルトスの部屋をノックしようと腕を振り上げたとき、部屋の中から扉が開いた。&lt;br /&gt;
「うげ……！」&lt;br /&gt;
　対面した人物の顔を仰ぎ見て、思わずこぼれた声にクロルは慌てて口を押さえた。そのクロルを冷たい視線で見下ろし、セルギスがわずかに息を吐く。&lt;br /&gt;
「……何か、私は貴方の気分を害することをしてしまったようだ。しかし私は自分が何を仕出かしてしまったのか検討がつきません。よければ、今後の参考にぜひお聞かせ願いたい」&lt;br /&gt;
「あ、いや！　いえ、そうではなくて……すみません、自分は少し対人恐怖症の気がありまして、誰に対してもこうなんです」&lt;br /&gt;
　言いながら、クロルはセルギスから顔を背けて一歩横に退いた。セルギスが廊下に出ると、その後ろからウィルトスがひょいと顔を出す。&lt;br /&gt;
「クロード君。タイミングバッチリですね」&lt;br /&gt;
　こちらとしては最悪のタイミングだと心の中で罵りながら、クロルは丸めたメモ用紙をウィルトスに差し出した。&lt;br /&gt;
「条件に該当する害獣は一種だそうです。メモにある本に挿絵つきで詳しい解説が載ってるって言ってましたけど、さすがに手に入るかどうか……」&lt;br /&gt;
「大まかな特徴と生態が分かっていれば十分です。後は例の“餌を食べないペット”がどこにどんな形で埋葬されたかを調べれば、捜索範囲は絞れるでしょう。その間にセルギスさんは、明日にも死にそうな患者さんの搬送をお願いします」&lt;br /&gt;
「それで倒れた人達が回復するのならば、よろこんでそうさせていただきます。偉そうに調査だなどと言って出向きましたが、恥ずかしながら現状こちらが打てる手立ては何もない。あなた方が信頼に足る傭兵であると確信が持てたわけではありませんが……」&lt;br /&gt;
　まだ年若い地方議員では、名家の出身といえど自由にならないことも多いのだろう。セルギスはすぐさま軍に調査を要請するべき状況であると理解しているようだった。であるのに、権力を持つ上の人間がそれを邪魔しているのだろう。&lt;br /&gt;
　どこか苦々しげに言って、セルギスは礼儀正しく会釈してからクロルとウィルトスに背を向けた。&lt;br /&gt;
　その背中が階段を下りていくのを見送って、クロルはようやく胸を撫で下ろす。&lt;br /&gt;
　それにしても、とクロルはウィルトスをちらと見上げた。&lt;br /&gt;
「調査に来た地方議員に、患者の搬送を手配させるなんて聞いたことありませんよ？」&lt;br /&gt;
「うん。僕としても町長に事情を話してやってもらうつもりだったんですが、二度手間になるのでとセルギスさんが引き受けてくれました。実行力と正義感を持った実力派です。あれが君の婚約者？」&lt;br /&gt;
「僕は男なので男とは婚約できませんし、そもそもこの町に来たのは今日が初めてだって言ってありませんでしたか？　そんなことより、害獣の捜索に必要になるでしょうから森の詳細な地図を市警団で借りてきます。そのついでに、情報を得るに当たって受けた精神攻撃のあおりで空っぽになった胃の中に、何か詰め込んできますよ」&lt;br /&gt;
「そう言えば僕もお腹が空きました。どこかで一緒に――」&lt;br /&gt;
「お断りします。一人で結構」&lt;br /&gt;
　鋭く切り捨てると、ウィルトスがあからさまに傷ついたような表情を浮かべて肩を落とす。&lt;br /&gt;
「振られました。結構ショックです」&lt;br /&gt;
「僕の妹と父親の命が掛かってるんですよ？　ウィルトスは八十年前のペットの墓探しを進めてください。明日には駆除を終わらせたい」&lt;br /&gt;
「うん。それじゃあ精神攻撃で傷ついた君の心のケアは、全てが片付いてからのお楽しみにしておきましょう。明日の朝に駆除に取り掛かれるようなら、ヴィクター君が必要ですねえ」&lt;br /&gt;
「前衛として使い物になるのはヴィクターだけですからね……」&lt;br /&gt;
　答えて、クロルは暗澹とした気持ちを追い出すようにため息をついた。&lt;br /&gt;
　退役するきっかけとなった事件が原因でクロルの左目はほぼ視力を失っているし、ウィルトスの足はもう長時間走ることができない。&lt;br /&gt;
「手にした唯一が最強ならば、僕達はあくまで無敵です。姫と呼ぶには少々ごついですが、捕らわれの身のヴィクター君を救出するナイトの役目は、クロルさんにお任せしましょう。僕が行くと色々こじれそうなので」&lt;br /&gt;
「あなたが本気を出してくれれば、何もこじれずに解決すると思うんですけど」&lt;br /&gt;
「まさか。僕は無力な妖精さんで、ようはナイトを姫に導く脇役です」&lt;br /&gt;
「ナイトに伝説の剣と盾と鎧を与えて、城の抜け道とドラゴンの弱点を教えて、ピンチになると魔法の粉で命を救ってくれる無力な妖精ですか」&lt;br /&gt;
　クロルが嫌味に眉を吊り上げると、ウィルトスは愉快そうに喉を反らして笑った。&lt;br /&gt;
「そう。それでも妖精には、どうしてもドラゴンが倒せない。だからナイトは何も持たず、他に何が出来なくても、ドラゴンを倒すことさえできればいい」&lt;br /&gt;
「あなたは純朴な妖精っていうより、試練を与える魔法使いって感じですけどね」&lt;br /&gt;
　釈然としない気持ちで言い捨てて、クロルは大きすぎるサングラスをずり上げてウィルトスに背を向けた。&lt;br /&gt;
　ともかく、まずは地図を手に入れよう。さっきの今で、またエディーの不遜な金切り声を聞きたくはないし、時間を置けばヴィクターの機嫌も少しはましになっているかもしれない。&lt;br /&gt;
「なんて……希望的観測か」&lt;br /&gt;
　自嘲と共に一笑に付し、クロルはとぼとぼとホテルを出た。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　その背中を、&lt;br /&gt;
「クロル」&lt;br /&gt;
　何気なく呼び止められて、反射的に振り返る。振り返ってしまってから、クロルは音も無く固まった。&lt;br /&gt;
　随分前に出て行ったはずのセルギスが、数歩の距離に立っていた。その表情はひどく険しく、半ばクロルを睨み付けている。&lt;br /&gt;
　クロルは背筋に冷や汗が伝うのを意識しながら、無理矢理唇に笑みを刻んで見せた。&lt;br /&gt;
「僕はクロードですよ、セルギスさん。そう言えばまともに自己紹介をしてませんでしたね。それとも、他の誰かを呼び止めたんですか？」&lt;br /&gt;
「演技は完璧だが、さすがに無理があるだろう。何か事情でもあるのかと、一応彼の前では知らぬふりを通したが……その変装で騙される人間がいるのか？」&lt;br /&gt;
　だめだ、最初からバレている。&lt;br /&gt;
　どこか呆れたような口調で静かに問われ、クロルはフードを脱いでぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。&lt;br /&gt;
「お父様は騙せたよ、少なくとも」&lt;br /&gt;
「彼は髪型を変えた奥方を客人と間違えたことがあるくらいだからな……。――マティアスには会ったのか？」&lt;br /&gt;
「まあ、うん。マティアスの手紙で呼び戻されたようなもんだからね。お父様が倒れたって。でなきゃ、今更ノコノコ戻ってきたりしないよ。ごめん。目障りだと思うけど、二三日中に片をつけたら消えるから」&lt;br /&gt;
「目障り……？」&lt;br /&gt;
　怪訝そうに聞き返し、セルギスは再び表情を険しくしてクロルを睨んだ。&lt;br /&gt;
「妙に私を警戒すると思ったら……なるほど、私がお前を憎んでいると――そう思ってのあの態度か。私が七年間お前のことを引きずり続け、未だに根に持っていると。なるほど、大した自意識だ！」&lt;br /&gt;
「べ、別に僕は、そんなつもりじゃ……！」&lt;br /&gt;
　慌てて取り繕おうとしたクロルに冷酷な一瞥をくれ、セルギスは静かに首を振った。&lt;br /&gt;
「目障りと言うのなら――事実だとも。否定はせんよ」&lt;br /&gt;
「……ごめん」&lt;br /&gt;
「だがそれは憎しみではなく憐れみからだ。私に人間としての尊厳を説き、理想を掲げて、自由を追ってこの町を去ったお前が、行き着いた先は取るに足らん傭兵か。軍に入ったと噂に聞いたが――所詮持たなかった……という事だろう。その程度の理想が、その程度の覚悟がお前の現実か。ならば結局七年前も、お前は理想を追ったのではなくただ現実から逃げたに過ぎない。そうして逃げた先からもまた逃げて、自由とやらを手に入れたというわけだ」&lt;br /&gt;
　クロルは曖昧な笑みを浮かべて、静かに口をつぐんだ。この程度の誹りならば、受ける覚悟はとっくの昔に出来ている。&lt;br /&gt;
　逃げたのだろうと言われたら、答えは是だ。その結果得たものを思えば逃避は最良の選択であったと胸を張って言えるが、それをセルギスに説明して理解が得られるとも思いがたい。&lt;br /&gt;
　だがクロルがあえて選んだ沈黙は、逆にセルギスをますます苛立たせた。&lt;br /&gt;
「言い返すこともしないか……。変わったな、お前は。七年前のお前はどんな破天荒な行動にも、必ず誇りと理由をもっていた。だから私は、自分の抱いた理想のために家族さえも捨てたおまえを尊敬すらしていた。それが――その様はなんだ？」&lt;br /&gt;
　言って、セルギスはクロルのつま先から頭までを視線で一撫でし、見るに耐えないとばかりにかぶりを降った。&lt;br /&gt;
「……患者の搬送の指示は済ませた。必要なものがあるならば揃えよう。私は私の全力を尽くす。だからクロル。もしお前にほんのわずかでも、本心から私にわびる気持ちがあるのなら――頼む。これ以上私を幻滅させないでくれ」&lt;br /&gt;
　クロルが返事をするのも待たずに立ち去ったセルギスの背中を、クロルは見えなくなってもしばし緊張の面持ちで見つめ続けた。&lt;br /&gt;
　走り去る車の音が遠くに消えてようやく肩から力が抜け、ため息と共に空を仰ぐ。&lt;br /&gt;
「きっつぅー……って感じですね」&lt;br /&gt;
「うわぁあ！」&lt;br /&gt;
　今まさに口に出そうとした言葉を代弁されて、クロルは情けない悲鳴を上げて飛びのいた。&lt;br /&gt;
　ウィルトスである。&lt;br /&gt;
「き、聞いてたんですか？」&lt;br /&gt;
「はい。君から遅れることおよそ五分の時間差で下りてきたら、先に行ったはずの君がもっと先に出たはずのセルギスさんと一緒にいたので、これは事件だと思いまして。特等席で拝聴しました。びっくりしました？」&lt;br /&gt;
「おかげで嫌な緊張感が完全にふっとびましたよ……」&lt;br /&gt;
「お礼には及びません」&lt;br /&gt;
　自慢げに笑ったウィルトスの顔をちらと見上げて、クロルは失笑と共にゆるゆると頭を振った。ウィルトスはいつだって、どうしてか一番側にいて欲しい時に必ず側にいてくれる。&lt;br /&gt;
　かなわないな、と頭の中で呟いて、クロルはウィルトスの胸にそっと額を押し当てた。&lt;br /&gt;
「クロード君？」&lt;br /&gt;
「どうも……批難の内容が予想していたのと違ってました。何かもっと、激しく罵られると思っていたんですけど……」&lt;br /&gt;
「脇ががら空きでしたね。モロにくらったって顔してました」&lt;br /&gt;
　くっくと、ウィルトスがおかしそうに肩を揺らす。釣られてクロルも小さく笑い、すいとウィルトスから距離を取る。&lt;br /&gt;
「僕、そんなに見るに耐えない姿してます？」&lt;br /&gt;
「うん。大きなサングラスにフード姿は滑稽ですし、大隊長副官の輝かしい肩書きと比べれば、パン屋兼傭兵なんて肩書きは糞のようなものだ。間違いなく人生の落伍者です」&lt;br /&gt;
「結構満足してるんだけどなあ……」&lt;br /&gt;
「落伍した先が安住の地であることは、そう珍しいことじゃない。僕に至っては公的に死人ですので、人生そのものから落伍したわけですが、充実した死人ライフを送っています」&lt;br /&gt;
「死人ライフって……」&lt;br /&gt;
「リビングデッドってやつですね。ヘッドショットで即死します」&lt;br /&gt;
　試しますか？　などと恐ろしいことを言うウィルトスに、試しませんよと即答する。&lt;br /&gt;
「生きている人から見れば哀れでしょうし、愛する人がゾンビになったら目を反らしたくなるのが映画や小説での決まりごとだ。けれどゾンビたちは、自分達を憐れんだり卑下したりはしません。食欲という欲望のために全力で生きている。実に奔放でエネルギッシュだ」&lt;br /&gt;
「いつもそんな風に思いながらゾンビ映画見てたんですか？」&lt;br /&gt;
「いえ、噛まれたら痛そうだなあと思いながら見てます。秀逸な例え話のつもりだったんですが、僕が何を言いたいのか分かりませんでしたか？」&lt;br /&gt;
「えーと……半々……ですかね」&lt;br /&gt;
　曖昧に答えたクロルに、ウィルトスが不満そうに唇を尖らせる。&lt;br /&gt;
「と、とにかく他人の評価なんか気にしてないで、傭兵は傭兵なりに全力で仕事をこなせばいいってことですよね。せいぜい幻滅をさせないように」&lt;br /&gt;
「結論だけ言うとそうなりますが……」&lt;br /&gt;
「今はその結論だけで十分です」&lt;br /&gt;
　ぶーぶーと文句を言うウィルトスと別れ、クロルはようやく車に乗り込んだ。&lt;br /&gt;
 &lt;/p&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt; &lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt; &lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/210.html&quot;&gt;前&lt;/a&gt;　　&lt;a href=&quot;http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/223.html&quot;&gt;次&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
    </description>
    <dc:date>2011-11-24T03:42:08+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/184.html">
    <title>生贄の森</title>
    <link>http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/184.html</link>
    <description>
      *&amp;bold(){生贄の森（連載中）}
|BGCOLOR(#E8E8E8):　町長の娘・リーリアは、町の人々を守るため、生贄として森の魔物に捧げられる。&amp;br()　その付添い人として、共に捧げられた村長の孫娘・レイラは『狼に食い殺されるのだ』と&amp;br()怯えていたが、森の魔物は二人を食い殺そうとはせず、魔物に従う人狼は二人の少女を&amp;br()『花嫁』と呼んで魔物屋敷へと導いた。&amp;br()　二人の少女と森の魔物、狼の森と、その森に囲まれた町や村に住む人々の物語。|

|BGCOLOR(#BEBEBE):話数|BGCOLOR(#BEBEBE):タイトル|BGCOLOR(#BEBEBE):概要|
|[[序章&gt;生贄の森1]]|&amp;size(12px){狼の森}|馬車で森の奥へと連れていかれた二人の少女は、&amp;br()森の魔物の館へとたどり着く|
|BGCOLOR(#BEBEBE):話数|BGCOLOR(#BEBEBE):一章|BGCOLOR(#BEBEBE):|
|[[1&gt;生贄の森2]]|&amp;size(12px){人狼}|ある日リーリアが教会で子供たちと遊んでいると、&amp;br()狩人がやって来て人狼が現れたと叫びだす|
|[[2&gt;生贄の森3]]|&amp;size(12px){人狼狩り}|町長は人狼に会った事があると言いって人狼狩り&amp;br()に反対するが、村長達はそれに反発する|
|[[3&gt;生贄の森4]]|&amp;size(12px){村長の孫}|森で遊んでいたレイラは、人狼狩りへ向かう父の&amp;br()姿を発見する|
|[[4&gt;生贄の森5]]|&amp;size(12px){ある寓話}|イグナートと共に森へと向かったレイラは、&amp;br()激怒する父と対峙する|
|BGCOLOR(#BEBEBE):話数|BGCOLOR(#BEBEBE):二章|BGCOLOR(#BEBEBE):|
|[[1&gt;生贄の森6]]|&amp;size(12px){森の魔物}|魔物の館に招かれ、花嫁と呼ばれた最初の夜、&amp;br()レイラが魔物の部屋に呼ばれる（魔物×レイラ）|
|[[2&gt;生贄の森7]]|&amp;size(12px){森の魔物２}|レイラを探して屋敷を駆け回るリーリアは&amp;br()不思議な階段を見つける|
|[[3&gt;生贄の森8]]|&amp;size(12px){狼の牙}|食料を探すため、リーリアとレイラは&amp;br()貯蔵庫を探すことに|
|[[4&gt;生贄の森9]]|&amp;size(12px){影}|森に人影を見つけたリーリアは、&amp;br()一人で夜の森に飛び出す|



.    </description>
    <dc:date>2011-11-13T02:42:37+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/221.html">
    <title>生贄の森9</title>
    <link>http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/221.html</link>
    <description>
      
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;h3&gt;生贄の森　二章-4&lt;/h3&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt; &lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;　無言のまま夜が訪れた。&lt;br /&gt;
　人の死体を見た直後では空腹もどこかへ吹き飛んでしまい、結局貯蔵庫の探索は諦めざるを得なかった。明日になって飢えが襲ってきたらどうなるか分からないが、すくなくとも今のところは、死体のある貯蔵庫をうろつき回る気は起きそうもない。&lt;br /&gt;
　リーリアたちが貯蔵庫の探索を諦めたと見ると、人狼もふいとどこかに姿を消してしまった。人狼の仕事はあくまで生贄を危険から遠ざけることであって、人狼個人がリーリアたちに何らかの興味を持っているわけではないのは明らかだった。&lt;br /&gt;
「……埋葬した方がいいかしら」&lt;br /&gt;
　暖かな部屋の中、することも無くぼんやりとしながら、ふとそんな言葉が口をついて出た。こくりこくりと船をこいでいたレイラが、ぱっと顔を上げてリーリアを凝視する。&lt;br /&gt;
「ま……埋葬って……あの死体？」&lt;br /&gt;
「地下で日の光も浴びられず、土にも返れないなんて……あんまりだと思わない？」&lt;br /&gt;
「それは……そうかもだけど……」&lt;br /&gt;
「それになんだか……夜になると動き出しそうな気がして……」&lt;br /&gt;
「わー！　わー！　やめてよやめて！　そんな話聞きたくない！」&lt;br /&gt;
　レイラは大声を上げて耳をふさぎ、ベッドに飛び乗って頭から毛布を被ってしまった。どうやら、幽霊話は苦手らしい。&lt;br /&gt;
　しかし――とリーリアはふと眉をひそめた。&lt;br /&gt;
　言葉を話す人狼が現れ、寓話だと思っていた魔物が実在し、おまけに「影」などという正体不明の何かが存在する異形の屋敷だ。死体が夜な夜な動き出し、貯蔵庫の暗闇を出口を求めてさ迷い歩いていたとして、なんの不思議があるだろう。&lt;br /&gt;
　その様を想像すると、リーリアは自分が言い出した事ながら少し背筋が冷たくなった。&lt;br /&gt;
「……狼に殺されたんだよね、あの人」&lt;br /&gt;
　毛布の中から、レイラがくぐもった声で呟いた。干からびた死体を見てその死因を特定することなどリーリアには出来ないが、人狼がそうだというならばそうなのだろう。&lt;br /&gt;
「どうして貯蔵庫で死んでたんだろう……？」&lt;br /&gt;
「そうね……わからないけど……襲われて、逃げ込んだのかもしれないわ」&lt;br /&gt;
　暴漢に襲われて家に逃げ込み、中から鍵をかけたはいいものの、すでに致命傷を負っていて密室で息絶えた男の話を本で読んだことがある。&lt;br /&gt;
　だが、この屋敷では大勢が働いていたはずだし、誰かが襲われて貯蔵庫で死んだとして、何故誰も気付かなかったのだろう。あるいはこの屋敷が廃墟になってから、たまたま森で迷った誰かが狼に襲われ、逃げ込んだのかもしれない。&lt;br /&gt;
　考えても真実は分からないが――ともかく、屋敷の中に不本意に命を落とした者の死体がある。それが、ひどく気障りだった。&lt;br /&gt;
「人狼が殺したんだよ、きっと。それで、あそこに隠したんだ」&lt;br /&gt;
「人狼が、私達から死体を隠す理由がないわ」&lt;br /&gt;
「じゃ、怖がらせるためにわざとあそこに置いたんだよ。知らない振りしてさ」&lt;br /&gt;
「それは……あるかもしれないけど……」&lt;br /&gt;
　ため息を吐いて、リーリアは窓の外にすいと視線を投げた。&lt;br /&gt;
　今夜もまた、はらはらと雪が舞っている。ふと、その雪の向うに奇妙な影を見つけた気がして、リーリアは月明かりに目をすがめた。&lt;br /&gt;
　人のようだった。屋敷を取り囲む森のすぐ入り口に、視線をいとうように立つその影は――。&lt;br /&gt;
「――お父様？」&lt;br /&gt;
　リーリアは立ち上がった。&lt;br /&gt;
　心臓が跳ね上がり、耳の奥でドクドクと血が流れる音がする。&lt;br /&gt;
　まさか――いいや、まさか、あり得ない。こんな雪の夜にたった一人で、こんな森の奥深くまで、どうして来られるというのだ。どうやって！　そもそもイグナートは、リーリアがまだ生きていることすら知らないはずなのに。&lt;br /&gt;
　だが確かに、窓の外に見えるあの影はイグナートに他ならない。リーリアはやかましく鼓動する心臓を押さえつけるように、胸の上で拳を握り締めた。&lt;br /&gt;
　見間違いだろうか。いや、見間違いだ。そうに違いない。先ほどから身じろぎ一つせずにこちらを見上げるあれが、イグナートであるわけがない。&lt;br /&gt;
　それでも――もし、もしもあれが父であったなら。&lt;br /&gt;
「リーリア？」&lt;br /&gt;
　異変に気が付いたように、レイラが毛布から顔を出した。蒼白になって窓の外を凝視するリーリアの姿を見て、レイラはただならぬ気配を察したのかぱっと毛布を取り払う。&lt;br /&gt;
「リーリア？　どうかし――」&lt;br /&gt;
「部屋にいて。レイラ。私――すぐに戻るから！」&lt;br /&gt;
　言いながら、リーリアは走り出していた。扉を開けるのももどかしく部屋を飛び出し、暗い廊下を全速力で駆け抜ける。&lt;br /&gt;
　驚いて飛び起きた見張りの狼が後ろから追ってきて、警告するように短く吼えた。それも無視して階段を駆け下り、食堂を通り抜けて厨房を目指す。一瞬あの死体が頭をよぎったが、他に外に出る道をリーリアはまだ知らなかった。今は屋敷内で道に迷っている暇はない。&lt;br /&gt;
　食堂の扉の向うで、締め出された狼がリーリアを責めるように激しく吠え立てていた。その声を背中に厨房へとたどり着き、リーリアは息を切らせて屋敷の外に飛び出した。&lt;br /&gt;
　父の暖かな胸に飛び込んで子供のように泣き崩れれば、全ての悪夢が終りを告げる気がした。&lt;br /&gt;
　魔物も、人狼も、貯蔵庫の死体も何もかもを忘れ去り、明日の午後にはレイラと共に教会で甘い菓子を焼くことができるのだと。&lt;br /&gt;
「お父様ぁ！」&lt;br /&gt;
　雪に目を凝らしてその姿を必死に探し、リーリアは声の限りに叫んだ。&lt;br /&gt;
　積もったばかりの雪に足は深く沈みこみ、一歩踏み出すことも難しかった。部屋から見えた場所がどこなのか、リーリアには分からない。屋敷を振り返ると、無数の窓が無表情にこちらを見下ろしているようだった。明かりの灯った窓が見えないということは、リーリアのいた部屋は反対側なのだろう。ならば父がいた場所もまた、そちら側の森だ。&lt;br /&gt;
　屋敷を迂回しようと森に背を向けかけたその視界が、また人影を捉えた。&lt;br /&gt;
　ちら付く雪に視界がけぶる夜の森に、その姿だけがはっきりと浮かび上がって見える。&lt;br /&gt;
「お父様――！」&lt;br /&gt;
　叫ぶと、人影は静かにリーリアへと振り返った。大きく両腕を広げる姿に歓喜の悲鳴を上げ、リーリアは足をもつれさせながらその胸へと飛び込む。&lt;br /&gt;
「お父様！　お父様、おとう――！」&lt;br /&gt;
　瞬間――。全身の肌が粟立つような違和感が、リーリアの背筋を駆け抜けた。&lt;br /&gt;
　人のぬくもりがまるで感じられない、冷たく硬い胸だった。抱きしめたその身体は異様に痩せ細り、すり寄せた頬には浮き出た肋骨の感触すらある。&lt;br /&gt;
　だというのに、鼓動の音が聞こえなかった。すぅと頭が冷えていくと共に、寒さではない何かでつま先から震えが這い登ってくる。&lt;br /&gt;
　顔を見るのが恐ろしくて、リーリアはうつむいたまま静かに身体を放そうとした。その腕を指が食い込むほどの力で強くつかまれ、リーリアは弾かれたように顔を上げると共に腹の底から悲鳴を上げた。&lt;br /&gt;
　眼前に、干からびた死体の顔があった。骨と皮になった身体に薄汚れた服を纏ったその死体は、地下貯蔵庫で見た物に他ならない。&lt;br /&gt;
　必死になってその手を振り解こうと身を捩ると、耳に障る鈍い音と共にリーリアは雪の中へと投げ出された。拘束が解かれて安堵する間もなく、肩からもげ落ちた死体の腕が視界に飛び込んできて、吐き気と悲鳴が胸郭を突き上げる。&lt;br /&gt;
　そのどちらも歯を食いしばって腹の底へと押さえ込み、リーリアは立ち上がって雪の中を駆け出した。&lt;br /&gt;
「誰か……助けて、誰か……！」&lt;br /&gt;
　敬虔な信徒であると思っていたが、祈りの言葉は一説たりとも頭に浮かんでこなかった。呼吸の合間に誰か、誰かと懇願を囁きながら、視界の聞かない夜の森を逃げ惑う。&lt;br /&gt;
　ほんの数歩歩けば視界が開け、館へと逃げ込めると思っていたのに、どれだけ足を動かしても連なる木々は途切れない。逃げる方向を間違えたのだろうか。だが、後ろを振り返ることは恐ろしかった。&lt;br /&gt;
　雪に埋れた足先も、冷気にさらされた指先も、感覚は無いのに痛みだけが耐えがたい。どこかから哄笑が聞こえてくるようだった。視線を樹上に走らせると、森に満ちた闇に浮かぶ無数の目が、目が、目が、にたにたと笑いながらリーリアを見下ろしている。&lt;br /&gt;
「いや……いや、いや、いやぁあ！」&lt;br /&gt;
　目を瞑って叫ぶのとほぼ同時に、リーリアは何かに衝突した。はっとして顔を上げると、遠く空に輝く満月を背に、空洞の眼窩がうつろにリーリアを見下ろしていた。&lt;br /&gt;
「ツーカマーエタ」&lt;br /&gt;
　闇に潜んだ何かが一斉に声を合わせたような、一つの声が耳元で囁くような、めまいを呼び起こす不快な声が楽しげに宣言した。&lt;br /&gt;
　くしゃくしゃと顔を歪ませながら、リーリアは唇を噛み締めてどうにか嗚咽を飲み込んだ。ドレスに忍ばせたナイフに手を伸ばすも、指が届く寸前に死体の手がリーリアの首を捉え、へし折らんばかりの力で締め上げる。&lt;br /&gt;
「なぜ逃げ出した、リーリア」&lt;br /&gt;
　今度はイグナートの声だった。愕然と見開いたリーリアの瞳の中で、死体の姿が見る見るイグナートへと変化していく。&lt;br /&gt;
「生贄が、生贄であるお前が、何故死を前にして逃げ出した。侍女であるレイラを身代わりに捧げて純潔を守っておきながら、命を捧げることすら拒むのか。生贄である事実から逃げるというならば、なぜあの時馬車に乗って逃げなかった。身体を捧げることも、命を捧げることもできぬなら、何故お前はここに来た。自らの身を犠牲にする高潔な少女を演じておいて、そうして自分だけ逃げるのか」&lt;br /&gt;
「違が……ぁ……あ、ぁ……あ……！」&lt;br /&gt;
　違うと叫ぼうとしたが、言葉どころかろくに声を出すことも出来なかった。舌を突き出して苦痛に喘ぎ、だらしなく開いた口の端からだらだらと唾液が零れ落ちていく。&lt;br /&gt;
　骨が軋む音が聞こえるような気がした。苦し紛れにイグナートの顔をした死体の服を引き裂き、干からびた身体に爪を立ててもがいたが、締め上げる力は強くなるばかりで逃れられそうも無い。耳の奥でキィンと高い音が響き、わんわんと頭痛がする。&lt;br /&gt;
　死ぬのだと漠然と思った。次の瞬間にも首の骨をへし折られ、ねじ切られて死ぬのだと。&lt;br /&gt;
　ぷつりと、世界から音が消えた。じわじわと闇が視界を侵して行く。&lt;br /&gt;
　気が付くと、苦痛はどこかへ消え去っていた。寒さも痛みも感じない。そのまま闇に溶けて消えて行きそうな意識の中に、水滴のようにぽつりと言葉が落ちてきた。&lt;br /&gt;
「かしがましいな」&lt;br /&gt;
　ごうと風が吹き上がった。視界を侵食していた闇がぱっと散り、それと同時に音と、寒さと、耐え難い苦痛が押し寄せてくる。&lt;br /&gt;
「失せろ――それは私の物だ」&lt;br /&gt;
　唐突に拘束を解かれて、リーリアは雪の中に投げ出された。どっと肺に息が流れ込んできて、どこから来ているのかも分からない苦痛にしばしその場で悶絶する。&lt;br /&gt;
　全身が脂汗でぐっしょりと濡れ、氷点下の空気がリーリアの身体を端から凍りつかせていった。息をするのも、身じろぎするのも、何もかもがひどく痛い。自然と涙が溢れたが、それすらも凍り付いてリーリアの肌を痛めつけた。&lt;br /&gt;
　その横を、何かがするりと横切って行く。雪に半ば埋れ、獣のように這い蹲りながらそちらに顔を向け、リーリアは瞠目した。&lt;br /&gt;
　魔物が、リーリアに背を向けて立っていた。&lt;br /&gt;
　そしてリーリアと同じように雪に埋れ、ピクリとも動かなくなった干からびた死体をごく優雅に抱え上げる。&lt;br /&gt;
「ここに在ったか――数が足りぬと思っていたが、ようやく揃った」&lt;br /&gt;
　淡々と呟きながら死体の顔を手の平でひたと覆い、魔物は炎を吹き消すようにふうと息を吹きかけた。&lt;br /&gt;
　すると死体がはらはらと崩れ落ち、雪に紛れながら魔物の腕から消えて行く。瞬きを一つする間に、死体は跡形もなく消え去っていた。後にはただ、魔物がぼうと立ち尽くしている。&lt;br /&gt;
　リーリアは自分が、わずかに森の開けた場所にいることに気が付いた。年老いた大木が朽ちて出来た広場だろう。まだ若い木も育っていない。&lt;br /&gt;
　その広場の中心に、魔物は立っているようだった。深い雪に埋れているが、何か石碑のような物が見える。&lt;br /&gt;
　あるいは、誰かの墓標だろうか。&lt;br /&gt;
「……ここは」&lt;br /&gt;
　呟くと、喉が潰れて老婆のようにしゃがれた声が出た。ぎょっとして喉に手をあて、何かを言おうとしてみても今度はそもそも声が出ない。&lt;br /&gt;
「私の墓だ」&lt;br /&gt;
　答えなど期待していなかったのに、魔物はごく短く答えた。&lt;br /&gt;
　あなたの？　と訪ねたがったが、かすれた声はやはり言葉にはならなかった。すると魔物が肩越しにリーリアを見やり、さくさくと雪を踏みしめながら歩み寄ってきた。&lt;br /&gt;
　膝まで埋れる雪の中、煉瓦道に浅く積もった雪を踏むような所作である。&lt;br /&gt;
「ここは私の墓であり、揺り籠であり、私の玉座を抱いた私の領地だ。私の入れ物はここで死に、故に私はここで生まれた」&lt;br /&gt;
　リーリアの正面で足を止めると、魔物は長身を折り曲げてリーリアの顔を覗き込んだ。&lt;br /&gt;
「それを――おまえ達は侵した」&lt;br /&gt;
　魔物の顔には相変わらず表情と呼べる物は見出せず、放たれる言葉も無機質で色が無い。&lt;br /&gt;
　怯えと警戒を滲ませてわずかに身を引いたリーリアの首に指を這わせ、魔物は赤黒く変色した白い肌をすいとなぞった。&lt;br /&gt;
「静かに行過ぎるのならば見逃した物を、彼らはかしがましく声を上げて私の墓に手をかけた。我が僕、我が友、私が同胞の墓に薄汚い唾を吐いた」&lt;br /&gt;
　痣をなぞっていた指が首筋を滑って顎をなで、リーリアの頬を包み込む。魔物の長く伸びた爪が柔らかな皮膚をわずかに突き破り、つ――と赤い血が一筋、リーリアの頬を伝って滴った。&lt;br /&gt;
　魔物が長い舌を伸ばしてその血の雫をすくい取り、リーリアの頬を舐め上げる。そのまま、魔物は血に塗れた舌をリーリアの口腔にねじ込んだ。&lt;br /&gt;
　生ぬるく蠢く舌の感触と、不快な鉄臭さが喉の奥まで充満し、リーリアはそのおぞましさから逃れようと身を捩る。しかし魔物の腕から逃れられるはずもなく、リーリアは暴れるのをやめて震えながらただ耐えた。&lt;br /&gt;
　魔物はリーリアの唇を舌で犯し、そそぎこんだ唾液を飲み下すのを確認してからようやく唇を解放する。つうと糸を引いた唾液がひどく汚らわしく思えて、リーリアは口に残った唾を吐き出すようにしながらごしごしと唇を拭った。&lt;br /&gt;
「おまえが彼らにとっての最も価値ある唯一だと言うのなら、私が汚しつくしてやろう。食らい尽くしてやろう。誇りの一片に至るまで丁寧に砕き尽くし、希望も絶望も失った抜け殻にしてやろう。その上で――おまえの居場所に帰してやろう。影だと知りながら惑わされる程に縋り求める、愛しい父の腕に戻るがいい」&lt;br /&gt;
「私は！」&lt;br /&gt;
　次の瞬間にも闇に溶けて掻き消えてしまいそうな魔物の姿を真っ直ぐに睨み据え、リーリアは潰れた喉から声を絞り出して叫んだ。&lt;br /&gt;
「どうなったって構わないのです……！　だけどレイラは村に帰してあげて！　生贄に選ばれたのは私です。レイラはただの侍女だったのよ！」&lt;br /&gt;
　不思議と言葉は途切れなかった。喉は変わらず血が滲むように痛むが、辛うじて声は出る。&lt;br /&gt;
　魔物は答えず、おもむろに月を見上げた。大きく息を吸い込み、高く、長く、深みのある声を森中に響かせる。&lt;br /&gt;
　狼の遠吠えだった。にわかに森がざわめきだし、&lt;br /&gt;
「お嬢ちゃん！」&lt;br /&gt;
　人狼の声がした。それから、吠え立てる狼の声。リーリアが顔を上げるよりも早く、硬くごわつく毛皮がリーリアの身体を包み込むように抱き上げた。&lt;br /&gt;
「馬鹿が！　あれ程夜に出歩くなと言っただろうが！　いったん影に飲まれちまったら、俺には見つけることも出来なくなる！」　&lt;br /&gt;
　人狼の顔がすぐ近くにあった。鋭い牙をぎらつかせ、金色の瞳でリーリアを睨み据えている。&lt;br /&gt;
　その顔を見て、どうしてかリーリアはひどく安堵していた。どっと肩の力が抜け、同時に寒さと恐怖でがくがくと体が震えだす。自分では震えをどうすることも出来なくて、リーリアは人狼の身体に力いっぱいしがみ付いた。&lt;br /&gt;
「――あれは私に魅入られた」&lt;br /&gt;
　魔物のささやき声が遠くから聞こえた。だがどんなに目を凝らして見ても、夜の森に紛れた姿は見つからない。&lt;br /&gt;
「もう、おまえの物ではない」&lt;br /&gt;
　リーリアは凝然として息を止めた。&lt;br /&gt;
「嘘よ……！　レイラは、あなたに魅入られてなんかいない。あの子は強い子よ！　お願いだからレイラを村に帰してあげて！」&lt;br /&gt;
「――ゴーラス」&lt;br /&gt;
「ああ」&lt;br /&gt;
「死なせるなよ」&lt;br /&gt;
「……ああ」&lt;br /&gt;
　それきり、魔物の声は途絶えた。&lt;br /&gt;
　&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt; &lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/220.html&quot;&gt;前へ&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
.&lt;/div&gt;
    </description>
    <dc:date>2011-11-13T02:41:08+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/220.html">
    <title>生贄の森8</title>
    <link>http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/220.html</link>
    <description>
      
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;h3&gt;生贄の森　二章-3&lt;/h3&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt; &lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;　仕方がないのだ、とイグナートは呟いた。&lt;br /&gt;
　自分は町長だから、そしてお前は町長の娘だから、仕方のないことなのだ――と。&lt;br /&gt;
　恐らく、イグナートはリーリアにではなく自分に言い聞かせていたのだろう。リーリアを生贄に差し出すことが決まってからずっと、イグナートは何度となくその言葉を繰り返した。&lt;br /&gt;
　リーリアは何も言わなかった。自分が町長の娘である以上、町の、村の人々を守るために自分が犠牲になることは、致し方ないのだと理解していたからだ。&lt;br /&gt;
　事実、本当に――本当に仕方なかったのだ。&lt;br /&gt;
　生贄を差し出さなければ魔物の怒りは収まらないと、村の誰もが信じて怯えきっていた。&lt;br /&gt;
　そして悪いことに、最初に人狼を撃った猟師には年頃の娘が一人いた。&lt;br /&gt;
　その娘を生贄に差し出せと、人々は猟師に迫った。この騒ぎを引き起こした張本人なのだから、娘を差し出してその責任を負うべきだと。&lt;br /&gt;
　将来を誓い合った恋人のいる、美女とはいえないまでも純朴で大人しい、気立てのいい娘である。無論猟師は抵抗した。娘の恋人も抗った。&lt;br /&gt;
　しかし恐怖に目の曇った者たちは力づくで娘を引き立て、取り戻そうとした猟師と恋人を集団で袋叩きにしたのだ。&lt;br /&gt;
　その場に、イグナートは居合わせた。声を荒げて暴徒を抑え、泣き喚く娘を救い出し――後は泥に足を取られたように、ずるずると引きずりこまれていた。&lt;br /&gt;
「ならばあんたの娘を差し出せ、イグナート」&lt;br /&gt;
　その声を最初に叫んだのが誰なのか、今となっては分からない。ヴァイナーだっただろうか。村長だっただろうか。それとも群集にまぎれた名も知らぬ誰かだろうか。&lt;br /&gt;
　誰にせよ、人々はその声に同調した。&lt;br /&gt;
　最も価値ある唯一――ならば確かに一介の猟師の娘より、リーリアの方が相応しいと、恐れを含んだ確信を持って囁きあった。&lt;br /&gt;
　馬鹿馬鹿しい、生贄など許さないとイグナートが言ったところで、不安で混乱した村の人々はリーリアを物陰で捕らえ、縛り上げてでも生贄にしただろう。そうでなくとも誰かを生贄を仕立て上げ、哀れな少女を森へと放り出すのだろう。事実、彼らはイグナートの言葉を無視して狼狩りを強行した。しかも今度は、村長やそれに連なる猟師達の一存ではない。何よりも村の総意が、生贄を望んでいたのだ。&lt;br /&gt;
　生贄は捧げられる。&lt;br /&gt;
　自分の娘を守るためにそれを見過ごし、許容してしまうことが、イグナートに出来るはずもなかった。&lt;br /&gt;
「……夜、裏口に馬車が来る」&lt;br /&gt;
　だから、そうリーリアに伝えることがイグナートの精一杯だったのだろう。&lt;br /&gt;
　全ての扉を開け放ち、黒塗りの馬車を裏口に待たせ、部屋で静かに本を読む。それがイグナートにとって、町長である自分に対し、父としての自分が出来る最大限の抵抗だったのだろう。&lt;br /&gt;
　だがリーリアはイグナートの――父の「逃げてくれ」という無言の懇願を聞きながら、それに気付かないふりをした。&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;　ふと、目が覚めた。&lt;br /&gt;
　音のしない部屋だった。使用人の足音も、馬の蹄の音も、通行人の話し声も、鳥のさえずりすら聞こえない。&lt;br /&gt;
　リーリアはゆっくりと起き上がり、静かに周囲を見渡した。&lt;br /&gt;
　見慣れない家具、見慣れない壁、古いペチカ、窓の外の白。&lt;br /&gt;
　昨晩、眠る前に見たままの部屋だった。レイラと手を握り合い、一緒に眠ったベッドの上で、リーリアは一人身を起こしている。&lt;br /&gt;
　――一人。一人だ。&lt;br /&gt;
　ああ、とリーリアは息を吐いた。&lt;br /&gt;
「……レイラ」&lt;br /&gt;
　目頭が熱くなったが、涙はもう溢れてはこなかった。&lt;br /&gt;
　そのとき、ふいに毛布の中で何かがうごめいた。&lt;br /&gt;
「……なに？」&lt;br /&gt;
　怪訝げに眉をひそめ、そっと毛布をめくり上げる。一瞬リーリアは悲鳴を上げそうになったが、結局声にはならなかった。&lt;br /&gt;
　尻尾を抱くように丸くなり、寝息を立てる狼が一匹――人狼に案内役として付けられた狼である。どうりで、妙に暖かいと思った。気付けばペチカの火も落ちているのに、狼の暖かさはリーリアを芯から暖めてくれていた。&lt;br /&gt;
「私、どうして部屋にいるのかしら」&lt;br /&gt;
　確か、廊下で動けなくなってしまったはずだ。この狼が引きずってきてくれたのだろうかと思ったが、リーリアはすぐにその馬鹿げた考えを振り払った。&lt;br /&gt;
「人狼、よね……」&lt;br /&gt;
　意識を手放す寸前に、確かに声を聞いた気がする。&lt;br /&gt;
　放っておいてくれればよかったのにと、リーリアは内心呟いた。あのまま死んでしまえればよかったのだ。深くため息を吐くと、狼がぱかりと瞼を開いた。のっそりと起き上がり、振り返りもせずに部屋から出て行ってしまう。&lt;br /&gt;
　器用にドアを開けるものだとその姿を見送って、リーリアは大きく伸びをした。&lt;br /&gt;
　ベッドを降りて窓を開けると、外は目に痛いような晴れだった。窓を開けて空気を入れ替えると、遠くから風に乗って教会の鐘の音が聞こえてくる。&lt;br /&gt;
　その音を聞いていると、自分が魔物の屋敷にいることを忘れてしまいそうだった。教会の老牧師と、彼に群がる子供達を思い出し、リーリアは胸を押さえて唇を噛み締める。&lt;br /&gt;
「レイラを探さなくちゃ」&lt;br /&gt;
　人狼の言葉を信じるならば、何があろうと殺されてはいないはずだ。リーリアは毛皮の外套を体に巻きつけ、あまり力強いとは言えない足取りで廊下に出た。&lt;br /&gt;
　昨晩と同じ、長くて陰気な廊下だった。窓がなく、明かりが灯っていないのが原因だろう。朝だというのにひどく暗い。&lt;br /&gt;
「これでは夜と同じね……」&lt;br /&gt;
　昨晩、人狼が居なければ闇とやらに呑まれてていたことを思い出し、リーリアは気持ちを引き締めて歩き出した。&lt;br /&gt;
　まず、どうすればいいだろう。とりあえず外に出てみるのがいいだろうか。部屋の前にいるものとばかり思っていたが、案内役の狼は見当たらない。&lt;br /&gt;
　昨日見たときは恐ろしく、おぞましいとすら感じたあの灰色の狼が、今ではいないとひどく心細く思えた。&lt;br /&gt;
「レイラ！」&lt;br /&gt;
　自分を奮い立たせるように、声を上げてレイラを呼ぶ。この階の部屋は、昨日全て見て回った。ここが最上階ならば、レイラを探すとすれば下の階だろう。魔物の部屋にはたどり着けないと言われたが、存在するならば絶対に見つけられるに違いない。&lt;br /&gt;
　暗い廊下を手探りで進みながら、リーリアは階段を見つけて恐る恐る階下を覗き込んだ。&lt;br /&gt;
　階段には明り取りの窓があり、廊下に比べると随分と明るい。昨晩は闇の底へ続いているように思えたが、今は窓がある分階段の方が安全に思えた。&lt;br /&gt;
「これも影とやらの幻覚じゃないといいのだけど……」&lt;br /&gt;
　恐る恐る足を踏み出し、特に何も起こらぬまま順調に下の階へとたどり着いた。&lt;br /&gt;
　降りるそこは広々としたホールになっており、左右に伸びる廊下と堂々とした扉がひとつある。その扉の正面に、灰色の影が見えてリーリアは足を止めた。狼だ。恐らく、リーリアの案内役の狼だろう。それが、扉の前でちょこんと腰を下ろしている。&lt;br /&gt;
　じっと扉を見つめているその後姿に歩み寄り、リーリアも狼と同じように大扉を振り仰いだ。&lt;br /&gt;
「……この先には何があるの？」&lt;br /&gt;
　狼はちらとリーリアに視線を投げ、体を伸び上がらせて扉に前足をかける。開けてくれと言われている気がして、リーリアはその重たい扉をごくゆっくりと押し開けた。&lt;br /&gt;
　むっとするようなカビとホコリの臭いに、リーリアは顔を背けてしばし咳き込む。しかし狼はするりと中に入っていってしまい、リーリアは袖で口を押さえながら慌てて狼を追いかけた。&lt;br /&gt;
　相変わらず薄暗いが、全面に窓がある広々とした部屋だった。部屋の中央に長テーブルがあり、天井からはすすけたシャンデリアがぶら下がっている。&lt;br /&gt;
　狼は一直線にテーブルへと駆けていき、ひょいとその上に飛び上がった。&lt;br /&gt;
「こら、お行儀が――」&lt;br /&gt;
　言いかけて、リーリアは狼に対してお行儀も何もないだろうと口をつぐむ。狼を追うように数歩歩いて、リーリアは瞠目した。&lt;br /&gt;
　薄くホコリの積もった長テーブルに、誰かが横たわっている。&lt;br /&gt;
「レイラ……？」&lt;br /&gt;
　緊張で息を吸うことが出来ないまま、リーリアはかすれた声で恐る恐るその名を呼んだ。&lt;br /&gt;
「レイラ！！」&lt;br /&gt;
　弾かれたように駆け出し、狼に続いて自分もテーブルに乗りあがる。その小さな体を抱え上げると、レイラは眠そうに顔を顰めてうっすらと目を開けた。&lt;br /&gt;
「……リーリア？」&lt;br /&gt;
　呟くようにそう言って、レイラはごしごしと目を擦る。凍りつくような寒さの中、毛布も被らずテーブルに横たわっていたはずなのに、レイラの頬はばら色に輝いているようだった。&lt;br /&gt;
　昨晩と同様に――むしろ昨晩よりも、余程健康的に見える。何より着衣に乱れが無いことに、リーリアは心底から安堵した。人狼なぞの言葉を頭から信じるなんて、昨晩はどうかしていたようだと内心で苦笑する。&lt;br /&gt;
「レイラ、大丈夫？　どこか痛いところはない？　私に何か話したいことは？　怖い思いをしなかった？」&lt;br /&gt;
「待って……ちょっと待ってよリーリア、落ち着いて」　&lt;br /&gt;
レイラは大きく口を開けて長々とのびをすると、周囲を見回して目を瞬いた。&lt;br /&gt;
「えぇ……？　なにこれ。ここ、どこ？　魔物様は？」&lt;br /&gt;
「わからないわ。ここはたぶん食堂で、私達の部屋の下の階に――」&lt;br /&gt;
　元気そうなレイラの姿に安堵しかけ、ふとリーリアは凍りついた。&lt;br /&gt;
「魔物……様？」&lt;br /&gt;
　そう聞き返すと、レイラははっとしたように目を見開き、真っ赤になってリーリアから顔を反らした。&lt;br /&gt;
「ご、ごめん！　なんでもない！」&lt;br /&gt;
　まるで、恋に恥らう少女のようだった。建物の影で交わしたキスの秘密を語るようなその態度に、リーリアは全身が総毛立つような感覚に襲われる。&lt;br /&gt;
「レイラ……あなた……魔物に何か……」&lt;br /&gt;
　レイラはますます顔を赤くするばかりで答えない。リーリアはそれ以上、何も聞くことが出来なかった。&lt;br /&gt;
　沈黙を不審に思ったのか、狼がきゅうと小さく鼻を鳴らす。その瞬間レイラが突如悲鳴をあげ、リーリアを突き飛ばすようにしてテーブルから転げ落ちた。&lt;br /&gt;
「レイラ！　どうしたの、大丈夫？」&lt;br /&gt;
　床に転がったレイラは真っ青に青ざめ、ガクガクと震える指を持ち上げる。&lt;br /&gt;
「お、お……狼だぁあ！」&lt;br /&gt;
　大きく目を瞬き、リーリアは首を巡らせて灰色の狼と顔を合わせた。&lt;br /&gt;
　ああ、と思った。なるほど、確かに狼だ。&lt;br /&gt;
「大丈夫。いい子よ」&lt;br /&gt;
　精一杯なだめるような笑顔を浮かべようと努めたが、狼が一歩足を踏み出そうとした瞬間、レイラは悲鳴と共に飛び上がり、部屋の隅まで脱兎のごとく駆け出して行ってしまった。&lt;br /&gt;
 &lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;*&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;
　狼が人間を襲わないなんて、レイラにはとても信じられそうもなかった。リーリアが大丈夫だと言うなら我慢するしかないが、狼が遠くからついてくるだけでも、狙われているようで落ち着かない。&lt;br /&gt;
　しかしリーリアが平然として歩いている姿を見ると、自分が特別臆病でみっともない存在のように思えて、レイラは狼を意識から締め出して必死に平気なふりをした。&lt;br /&gt;
「食べ物を探さないといけないわね……」&lt;br /&gt;
　長い廊下を歩きながら、リーリアは真剣な表情で呟いた。昨日の午後から何も食べていなかったから、二人ともひどく空腹だったのだ。生贄として差し出されておきながら、まさか生き延びられるとは思っていなかったから、当然食料の用意などしていない。&lt;br /&gt;
　食堂から伸びる使用人通路ならば、設計者が余程の変わり者でなければ必ずキッチンに続いている。キッチンの近くには貯蔵庫があるはずだし、そこにならば何か食べ物が残っているかもしれないと、リーリアは思っているようだった。&lt;br /&gt;
「飴ならあるんだけどな」&lt;br /&gt;
　口の中で飴玉を転がしながら、レイラはちらとリーリアの横顔を伺った。&lt;br /&gt;
　昨晩レイラと魔物の間に何が起こったのか、リーリアは恐らく気付いているのだろう。汚らわしいと怒鳴られたり、嫌われたりするかもしれないと思ったが、リーリアは純粋にレイラの体を心配しているだけのようだった。&lt;br /&gt;
「ね、リーリア」&lt;br /&gt;
「うん？」&lt;br /&gt;
「リーリアは、魔物が怖い？」&lt;br /&gt;
　恐怖でか、嫌悪でか、リーリアの横顔がさっと強張る。しかしすぐに柔らかな表情を取り戻し、リーリアは困ったように首を傾けた。&lt;br /&gt;
「少し」&lt;br /&gt;
「少し？」&lt;br /&gt;
「ええ、ほんの少しだけ」&lt;br /&gt;
　そう答えたリーリアの表情は、言葉とは裏腹にどうしようもなく不安げで、レイラはその事実が喜びとなって自分の胸を満たしていくことに気が付いた。&lt;br /&gt;
　リーリアは魔物が恐ろしいのだ。だが、自分は彼を恐ろしいと思わない。――思えない。&lt;br /&gt;
「それならリーリア、僕が――！」&lt;br /&gt;
「でも、立ち向かう勇気を失ってしまうほどではないわ」&lt;br /&gt;
　不安と恐怖の中に、確かな強さをたたえた声で、リーリアはきっぱりと言った。&lt;br /&gt;
　立ち向かう勇気、と口の中で繰り返して、レイラはリーリアがドレスに隠したナイフのことを思い出す。&lt;br /&gt;
「リーリアは……魔物を、その……やっつけるつもりなの？」&lt;br /&gt;
「やっつける？」&lt;br /&gt;
　驚いたように聞き返され、レイラは慌てて首を振った。&lt;br /&gt;
「ち、違うよね！　ごめん、レイラはお嬢様なのにそんな……魔物をやっつけるなんて！　そんなこと、お城の騎士のすることだもんね！」&lt;br /&gt;
　そもそもリーリアがナイフを忍ばせているのは、狼に食い殺される前に自害するためだ。間違っても魔物に突き立てるための物ではない。&lt;br /&gt;
　レイラが気恥ずかしさからあれこれと無駄に言葉を並べると、リーリアはくすりと微笑んだ。&lt;br /&gt;
「そんな大それたこと、考えてもみなかったわ。生贄の娘が魔物をやっつけてしまうだなんて、後世に残る物語になりそうね」&lt;br /&gt;
「……そう、だね」&lt;br /&gt;
「ええ、本当に――やっつけてしまえたらいいわね」&lt;br /&gt;
　これにもうん、と頷いて、レイラはせわしなく両手の指を組み合わせた。&lt;br /&gt;
 &lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;
　ほどなくして、二人は広大なキッチンにたどり着いた。過去には数十人の料理人が忙しく駆け回ったであろうその場所は、窓が割れているせいで半ば雪に埋もれている。&lt;br /&gt;
「食堂は二階にあったのに、ここは一階なんだね」&lt;br /&gt;
　身体を温めようとその場で世話しなく足踏みをしながら、レイラが不思議そうに言った。&lt;br /&gt;
「食材を運びこまないといけないから、キッチンは一階にあった方が都合がいいのよ。廊下が下り坂になっていたでしょう？　ここで作った料理を台車に乗せて二階に運んだんだと思うわ。たぶん、この部屋のどこかに地下貯蔵庫の入り口があると思うのだけど……」&lt;br /&gt;
「無かったら？」&lt;br /&gt;
「扉を片っ端から開けるゲームを始めることになるわね」&lt;br /&gt;
「たぶんぼく、そのゲームすっごい得意！」&lt;br /&gt;
　笑って、リーリアはレイラと手分けしてキッチンの床を調べ始めた。床のほとんどは雪や枯葉に埋れており、石畳が露出している部分は広大なキッチンの中央付近のみである。だが深く積もった雪をかきわけて見ると、程なくして凍りついた床に小さな木戸が張り付いているのを発見することができた。&lt;br /&gt;
　年月が経って朽ちたのか、錠を通す金具が付いていたのだろう部分がぽっかりと抜け落ちている。&lt;br /&gt;
　二人で協力して重たい木戸を開けると、地下へと続く石造りの細い階段が姿を現した。ひょいと中をのぞいてみると、キッチンと同じくらいの広さがあるようだ。&lt;br /&gt;
「何かあるかな」&lt;br /&gt;
「これだけ寒いと、全部凍りついていそうね。地下なら夏でも気温が上がらないんじゃないかしら。期待はできそうだけど……」&lt;br /&gt;
「でも、真っ暗。明かりがないと降りられないよ」&lt;br /&gt;
　光の届かない地下はあまりに暗く、階段の終りすら闇の奥に消えている。これだけ広い屋敷だ。探せばカンテラの一つや二つ簡単に見つかるだろうが――。&lt;br /&gt;
「使うか？」&lt;br /&gt;
　顔を上げると、眼前にカンテラがぶら下がっていた。ガラス窓の奥でちらちら揺れる小さな炎は、光ばかりかささやかな暖かさまでリーリアに与えてくれる。&lt;br /&gt;
「あら、ご親切にどうもありがとう」&lt;br /&gt;
　ごく自然に受け取って、リーリアははたとレイラへと振り向いた。レイラも青ざめた顔色で、リーリアと視線を絡ませる。&lt;br /&gt;
　この、カンテラを――。自分は今、一体何から受け取ってしまったのだろう。&lt;br /&gt;
　レイラとリーリアは息をのみ、同時に背後へと振り返った。&lt;br /&gt;
「で？　何やってんだ、お前ら」&lt;br /&gt;
「きゃぁああぁ！」&lt;br /&gt;
　振り返ったのが同時なら、甲高い悲鳴を上げたのもまた二人同時であった。振り向いた二人のすぐ鼻先で、人狼がレイラたちと同様に貯蔵庫を覗き込んでいたのである。&lt;br /&gt;
「あ、わ……きゃぁ！」&lt;br /&gt;
　思い切り飛びのき、床を転がって距離を取れたレイラはよかった。だが半ば身を乗り出して貯蔵庫をのぞいていたリーリアには逃げ場がなく、叫んで仰け反った拍子にぐらりと身体が後方に傾いた。とっさに床に手を付いて体重を支えようと身体が動いたが、リーリアが倒れこんだ先には床が無い。&lt;br /&gt;
「リーリア！」&lt;br /&gt;
「やべっ――！」&lt;br /&gt;
　何かに縋ろうと伸ばした腕は虚しく宙をかき、リーリアの身体は暗い貯蔵庫の中へと投げ出された。&lt;br /&gt;
　闇へと伸びる階段がぐっと眼前に迫り、リーリアは痛みを覚悟して目を閉じる。その瞬間、人狼がリーリアの身体を追って闇の中へと腕を伸ばした。&lt;br /&gt;
　時が止まったような一瞬の後、リーリアの身体は闇からと引っ張り出され、気が付くと人狼の胸へと倒れこんでいた。&lt;br /&gt;
　レイラもリーリアも、人狼さえも異様な緊張感にしばし硬直していた。ガランガランと、カンテラが階段を転げ落ちていく音がやかましく響く。&lt;br /&gt;
　しん、と音が消えてからしばらく、最初に声を上げたのはレイラだった。&lt;br /&gt;
「リ、リーリア！」&lt;br /&gt;
　レイラの呼び声にはっとして、リーリアはぱっと人狼から飛びのいた。人狼も慌てたようにリーリアから距離を取り、気まずそうにわしわしと鼻面を撫でる。&lt;br /&gt;
「すまん……その、脅かすつもりじゃあ、なかったんだが……」&lt;br /&gt;
「いえ……私こそ……助けていただいて……」&lt;br /&gt;
　ぺたりと石畳にへたり込んだまま、リーリアは自分でも情けなく思えるほどにみっともなく震える声を、どうにか途切れ途切れに絞り出した。&lt;br /&gt;
「し……死んだかと思いました……どうも、ありがとう」&lt;br /&gt;
「ば、馬鹿ぁ！　何人狼なんかにお礼言ってるんだよ、早く逃げなきゃ！」&lt;br /&gt;
「逃げる？」&lt;br /&gt;
　何から？　と訪ね返そうとして、ああ、人狼からかとリーリアは心の中で合点する。しかし今、まさに自分の命を救ってくれた人狼から、どんな顔をして逃げようというのか――。&lt;br /&gt;
リーリアはレイラと人狼を交互に見比べ、最後に改めて人狼を見た。それからゆるゆると首を振り、困ったようにレイラに微笑みかけた。&lt;br /&gt;
「いいえ……逃げなくても大丈夫よ」&lt;br /&gt;
　レイラが大きく目を見開き、息さえ止めてリーリアを凝視する。&lt;br /&gt;
「な、何言ってるんだよ！　よく見てリーリア！　人狼なんだよ！？」&lt;br /&gt;
「この者は魔物の下僕で、生贄である私達が誤って命を落とさないように見張っているだけよ。だから、私達に危害を加えたりはしないわ。そうですわよね？」&lt;br /&gt;
　実際、人狼はこれで三度リーリアの命を救ったことになる。脅すようなそぶりもなく、いい加減、人狼は自分達の命を脅かす存在ではないと認めざるをえない。&lt;br /&gt;
　それどころか、この人狼は現状でリーリアたちが唯一頼ることができる存在ですらあった。この森では、屋敷では、レイラとリーリアはあまりにも無力すぎる。&lt;br /&gt;
　それでも、心を許せるような相手でないのは間違いないが――。&lt;br /&gt;
「だから、最初っからそう言ってんだろうが」&lt;br /&gt;
「この状況で人狼の言葉を頭から信用できる人間なんて、私のお父様くらいのものです！」&lt;br /&gt;
　呆れたような人狼の言葉に、リーリアは憤慨して言い返した。&lt;br /&gt;
　その言葉に何を思ったのか、人狼は目を細めて低く笑う。&lt;br /&gt;
「……で？　何をしてたんだって？」&lt;br /&gt;
　ようやく足の震えも収まりはじめ、リーリアは半ば這うようにして貯蔵庫の入り口から距離をとってからふらふらと立ち上がった。&lt;br /&gt;
　人狼が恐ろしいのだろう、レイラは放れたところに立ち尽くしたまま、泣きそうな表情でじっとこちらを睨んでいる。&lt;br /&gt;
　怯えきっているレイラに軽く微笑んで見せてから、リーリアは人狼の背中に歩み寄った。&lt;br /&gt;
「実は食料を探していたの。生贄として狼の餌になる運命だと思っていたから、食料の用意なんてなくて……」&lt;br /&gt;
　リーリアは人狼に状況を説明し、先ほど自分が落ちそうになった貯蔵庫を指差した。&lt;br /&gt;
「それで、貯蔵庫を見ていたの」&lt;br /&gt;
「人間てのは、食い物を溜め込むんだっけな。そういや」&lt;br /&gt;
「魔物の屋敷に、人間の食べ物があるかはわからないけど……」&lt;br /&gt;
「その点は問題ないだろうよ。元は人間が作ったもんだ」&lt;br /&gt;
　事も無げに答えた人狼を、リーリアは愕然と振り仰いだ。その視線に気付いたようにリーリアを見下ろした人狼は、何かに思い至ったように面倒くさそうに手を振る。&lt;br /&gt;
「妙な勘ぐりで騒がれても面倒だから言っておくが、俺が住み着いたときにゃもうここは廃墟だった。おっさんはどうだか知らんが――まあ、屋敷一つのために人間を殺すほど能動的な性格はしてねぇよ。日があるうちは、屋敷内でもめったに姿を見せやしねぇ」&lt;br /&gt;
「そ……そう」&lt;br /&gt;
　それならばよかったと、リーリアは胸を撫で下ろす。人を殺していないのもそうだが、少なくとも昼間は魔物に出くわす心配が無いのはありがたい。&lt;br /&gt;
「で、どんな物が必要なんだ？」&lt;br /&gt;
「ええ、そうね。小麦粉と葡萄酒があれば、せめて暖かいパンが焼けるから……」&lt;br /&gt;
「葡萄酒？　あー、ありゃいいもんだなぁ」&lt;br /&gt;
「知っているの？」&lt;br /&gt;
「まあ身近なもんじゃあねぇがな。あるのか？　ここに」&lt;br /&gt;
「この屋敷のことは、あなたの方が詳しいんじゃありませんこと？」&lt;br /&gt;
「俺にとっちゃ、雨風しのげる便利な巣くらいの感覚だからな」&lt;br /&gt;
　なるほど、とリーリアは肩を落とす。ここの住人とは言っても、屋敷の隅々までを熟知しているわけではないらしい。&lt;br /&gt;
「それで、今から下りてみようと思うのだけど」&lt;br /&gt;
　とはいう物の、先ほど命を落としかけた穴である。恐る恐る覗き込むと、先ほど放り出したカンテラがまだ生きているようで、闇の中に階段が浮かび上がっていた。&lt;br /&gt;
　これならば、どうにか降りられそうではあるが――。&lt;br /&gt;
　リーリアが降りるのを躊躇している間に、人狼はひょいと貯蔵庫へと飛び込んでいってしまった。一緒に食料を探してくれる気なのだろうか。ただ、葡萄酒が欲しいだけかもしれない。&lt;br /&gt;
「リーリア」&lt;br /&gt;
　ドレスの裾を軽く引っ張られ、リーリアは階段を睨んでいた視線を背後へと滑らせた。すると案の定、レイラが怯えた表情を浮かべながら貯蔵庫を睨んでいる。&lt;br /&gt;
「下りるの？」&lt;br /&gt;
　問われて、リーリアは小さなため息と共に頷いた。&lt;br /&gt;
「そうするしかないものね……待っていてもいいのよ？」&lt;br /&gt;
「そんなのダメだよ！　行くなら一緒に行かなきゃ……！」&lt;br /&gt;
「でも、人狼が……」&lt;br /&gt;
「だって、リーリアは怖くないんでしょ……？」&lt;br /&gt;
　人狼も、狼も。&lt;br /&gt;
「それに、これでもしリーリアが貯蔵庫で人狼に食べられちゃったら、ぼく一生自分のこと許せなくなっちゃうもん」&lt;br /&gt;
　本人はいたって真剣なのだろうが、泣きそうな表情で必死に強がるその姿はむしろ微笑ましくすら感じられ、リーリアは思わず小さく噴き出した。&lt;br /&gt;
「な、何で笑うんだよ！」&lt;br /&gt;
「ご、ごめんなさい！　確かにその通りだと思ったら、なんだかおかしくなっちゃって……」&lt;br /&gt;
「ぼくはリーリアほど強くないかもしれないけど、こ、腰抜けではないんだから！　そりゃ、人狼や狼は怖いけど、それでも自分だけ助かればいいなんて思えないよ……」&lt;br /&gt;
　その言葉に、ちくりとリーリアの胸が痛んだ。&lt;br /&gt;
　――よかったじゃねぇか。あんたは無事だ。&lt;br /&gt;
　人狼の言う通り、望んだわけではないにしろ自分は今、レイラを犠牲にして生きている。&lt;br /&gt;
「リーリア？」&lt;br /&gt;
「……あなたが腰抜けだなんて、思わないわ」&lt;br /&gt;
　それ以上、リーリアにはどう言う事もできなかった。&lt;br /&gt;
　私の代わりに魔物の部屋に行ってくれてありがとう？　行かせてしまってごめんなさい？　どの言葉もひどく白々しく、卑怯に感じられる。&lt;br /&gt;
「行きましょう」&lt;br /&gt;
「待って！　あの……！」&lt;br /&gt;
　歩き出そうとしたリーリアのドレスを強く掴んで、レイラが慌てたように声を上げた。&lt;br /&gt;
「あの……手、繋いでいい？　あ、あ、笑わないでよ！　ぼくだって恥ずかしいんだから！」　&lt;br /&gt;
「ご、ごめんなさい……！　もちろん、私の方こそお願い」&lt;br /&gt;
　言いながらも、くすくすとこぼれる笑いは収まらない。ふてくされたように唇を尖らせたレイラと手を取り合い、リーリアは凍り付いて滑りやすくなっている石階段へゆっくりと足を踏み出した。何度も転びそうになりながらやっとの思いで階段を下りきり、転がっているカンテラを拾い上げて周囲を照らす。&lt;br /&gt;
　と、随分前に貯蔵庫に入ったはずの人狼の背中がすぐ近くに見えた。何かを見つけたのか、じっと一点を見つめたままその背中は動かない。&lt;br /&gt;
「……人狼さん？」&lt;br /&gt;
　声をかけて歩み寄ると、リーリアの視線を遮るように人狼が太い腕を突き出した。&lt;br /&gt;
「見て――気分のいいもんじゃねぇぞ。特にあんたらにとっちゃ最悪だ」&lt;br /&gt;
「そこに……何かいるの？」&lt;br /&gt;
　昨晩、狼の忠告を無視して命を落としかけたリーリアである。硬く強張った声で聞くと、人狼は答えあぐねるように沈黙した。&lt;br /&gt;
　大分時間を置いてから、一言。&lt;br /&gt;
「死体がある」&lt;br /&gt;
　リーリアは凍りついた。&lt;br /&gt;
「……まさか。だって、さっきあなた――」&lt;br /&gt;
「俺が殺したんだったら、最初からそう言ってる。隠す必要もないからな」&lt;br /&gt;
　正論であった。人狼にはそもそも、リーリアに嘘を言って自分を取り繕う必要性などどこにもない。あるいは、懐柔して扱いやすくしようと思っているのかもしれないが、ならば死体がある貯蔵庫へ入ることを許しはしなかっただろう。&lt;br /&gt;
　リーリアは息を呑み、レイラの手を硬く握って一歩前に踏み出した。それに気付いた人狼が、リーリアの視線を遮っていた腕を静かに下ろす。&lt;br /&gt;
「ひっ……ッ……！」&lt;br /&gt;
　カンテラを掲げてみると、確かにそこには人間の死体があった。茶色く干からび、ほぼ白骨化していたが、粗末な服装から下働きの下男であることが分かる。&lt;br /&gt;
「どうして死んだの……？」&lt;br /&gt;
　リーリアにしがみ付いたまま、レイラが震える声で問いかけた。聞かずにはいられなかったのだろう。人狼は視線だけを動かしてレイラを見やり、しばし思案するように口ごもる。&lt;br /&gt;
「咬み傷だ」&lt;br /&gt;
　低く言った人狼の鋭い犬歯が、カンテラの炎に照らされて不気味に闇に浮かんで見えた。&lt;br /&gt;
「――狼のな」&lt;br /&gt;
　&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;margin:0mm 0mm 0pt;&quot;&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href=&quot;http://www7.atwiki.jp/nigenoitte/pages/221.html&quot;&gt;次へ&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
.&lt;/div&gt;
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