「ここからは道が悪くて進めないが、真っ直ぐいけば森を入ったところに廃墟が見えてくる。そこがお前さんらの目的地だ」
 年老いた御者が森を指差し、ひび割れたしゃがれ声で早口に言った。
 目深に被ったフードで顔はよく見えなかったが、ひょろりと伸びた長い尻尾からその種族がネズミと知れる。「ネズミは本能的に危険な道を避けて通るから、御者にするならネズミに限る」というハンスの持論から、千宏たちはネズミの御する馬車を利用することが多かった。
 とくに誠実であるとか、サービスが行き届いているというようなことはないが、実際今までネズミの御者を選び続けて、詐欺にあったり盗賊に襲われたりしたことはない。
 なので千宏もネズミの御者には好意的な印象を持っていたのだが、今回ばかりは素直に馬車を降りる気になれなかった。
 千宏は目を瞬いて窓から周囲を見渡し、ハンスと顔を見合わせた。
「あの……街って言われて来たんだけど……」 
 人っ子一人、家一件見当たらない、正真正銘の荒地である。
 乾いた黄色い土と、遠くの方に細い川。川の先にある小さな雑木林。見えるものはそれだけだ。林の入り口に、かろうじて家屋らしき物が見えなくもないが――。
「……てか、廃墟って?」
「紙の住所はここに間違いねぇよ。間違えるはずもねぇ。いかにも街って所につれてって欲しいならかまわんが、ここから2キロ先になる。戻ってくるのもそれなりに骨だぞ」
 小さな格子窓の向うで、御者がいかにも面倒くさそうに言い放つ。千宏が困惑して表情を曇らせると、ハンスも息を吐いて窓から身を乗り出した。
「まあ……住所だけで考えれば、郊外でも街は街だな。元は農家か何かだろう。無人の廃墟に見えても、偏屈な変わり者が住んでいることくらい珍しいことでもない」
「そりゃまあ、そうなんだろうけど……」
 ともかく、いつまでも馬車に居座っても仕方がないと、千宏はひらりと荒地に飛び降りた。その足が地に着いた瞬間、目的地を記した紙切れに炎が走り、千宏は驚いてメモ用紙を手放した。
「うわ、なにこれ!」
「あんたらを無事、目的地に届けた証拠さ」
 答えたのは、おっくうそうに御者台から降りてきたネズミである。複雑な刻印の浮かび上がったメモを拾い上げ、大事そうに懐へとしまい込む。
「これを書いた人間のところにもっていきゃあ、俺達はそいつから馬車代がもらえる。あんたらは運賃を払わずそのまま道を進めばいい。この国では普通のことだ」
「だって。ハンス知ってた?」
「俺は他人に馬車をおごられるような立場じゃなかったからな……」
「ああ……だよね」
 なにせ、元犯罪者である。
「……なあ。聞くがあんたら、ここがどこなのかは……知ってるんだろうな? トラの魔法使いとイヌの剣士とは妙な組み合わせだが、傭兵かなんかなんだろう?」
 そそくさと馬車に片足をかけ、ふと御者が不安げに振り返った。ハンスは鼻の頭にシワを寄せ、何のことかと表情だけで問い返す。
「医者の家だと聞いて来たが。この女が怪我をしてな」
「い、医者だと!? なにを馬鹿な……! 誰にそそのかされた!」
 思わず、と言うように叫んでしまってから、御者は慌てて口を閉ざした。それから大きな耳をぴんと立て、周囲の音を探るように注意深く伸び上がる。
 千宏も同じように耳をそばだててみるが、所詮ヒトの耳に聞こえてくるのは風が木々を揺らす音ばかりである。
「……とにかく、廃墟に行け。俺に言えるのはそれだけだ」
「ちょ、ちょっと待ってよおじさん! あたし達まさにそそのかされた感じでここに来たんだけど、一体何がどうなってるわけ? あたしたち傭兵でもないし、なんか嫌な予感しかしないから、できるだけ速やかにここを離れたいんだけど……!」
 飛び乗るように御者台に乗り込んだネズミの服をむんずと掴み、千宏はネズミの体に追いすがった。ハンスも異論はないようで、すでに馬車の扉に手をかけている。ネズミは忌々しげに舌打ちし、わしわしと長い鼻を撫でた。
「乗せる気は無い――と言っても、おまえさんら俺の馬車を奪うんだろうな」
「いや、別にそんなつもりは――」
「察しがいいな。ネズミはいつも話が早くていい」
 笑顔で取り繕おうとした千宏の声をさえぎって、ハンスが淡々と盗賊のような言葉を吐いた。おどろいて振り返った千宏の視線を無視して、ハンスはしばしネズミと睨み合う。
 当然、折れたのは年老いたネズミだった。
「乗せるのは嫌だが、ここに取り残されるのはもっと嫌だ……乗れ。今すぐ街に引き返す。どういう経緯で送り込まれたかは知らんが、ここはトラの巣だ」
「トラ……の巣……?」
 声を低くした御者の言葉にきょとんとして聞き返した千宏の体を、ハンスが抱えあげてすぐさま馬車に放り込んだ。ぎゃう、と叫んで座席にひっくり返った千宏の後を追い、ハンスも客車に飛び乗る。と同時に馬車が猛然と走り出し、千宏はしたたか頭を打ち付けた。
「ちょっと! 打ち所悪かったら今ので死んでたよマジで!」
「トラの犯罪者を知ってるか?」
 頭を抱えて悲鳴に近い不平を叫ぶと、ハンスが張り詰めた声で短く聞いた。千宏は眉間に皺をよせ、虎の犯罪者についての記憶を探る。この世界に落ちてきてそう長いというわけではないが――。
「まあ、あんまり聞かないね。トラの国は治安良かったし。どちらかというとヒーロー気質じゃない?」
「そうだ。過失の数なら群を抜いて多いが、国外においてトラが故意に起こす犯罪は極端に少ない。裕福なトラにはその必要がないからだ。そのトラが、国外で盗賊をはじめた場合どうなると思う」
「そりゃ……」
 トラの国は肥沃な大地に恵まれている。それゆえ飢えるのが難しいと言われるほどに裕福だ。犯罪ももちろん起こりはするが、彼らにとっては盗賊行為さえ娯楽のような物だと噂に聞いたことがある。盗賊と護衛でゲームを楽しんでいるだけなのだと。
 トラには国の外に出る必要性がほとんどない。自分たちに与えられた縄張りの中で、全てが完結できる。そんなトラが、わざわざ国外で盗賊をする理由とはなんなのか――。
「性質は悪そうだね。なんとなく」
 ハンスが空気の匂いをかいで低く唸り、忌々しげに舌打ちした。
「ああ、そうだ。性質が悪い! 享楽的で淫蕩で、自己中心的で暴力的。それがトラの本質だ。やつらはそれを誇りで縛り、生来の暴力性も強者にのみ向けることで、大事に至らないよう国ぐるみで配慮している――来るぞ! 木の上だ!」
 突然ハンスが大声を上げ、馬車が大きく左へ曲がった。千宏は再び座席を転がって背中を強打し、弾みで開いたドアの外に放り出されそうになる。
 すんでの所でハンスが千宏のローブを掴むが、ともすれば頭が地面で削られてしまいそうだった。
「うわぎゃあぁ! 車輪! しゃ、しゃりん! 車輪ちかっ! 引き上げて早く引き上げてぇえ!」
「座席の下にうずくまってろ!」
 ぐいと力強く引き上げられ、千宏は再び馬車の中に転がり込む。わけも分からぬまま言われたとおり座席の下にうずくまると、ハンスが馬車から身を乗り出してすらりと剣を引き抜いた。
 その背中の向こうに、何かいる。猛スピードで駆ける馬車と併走するその影は――。
「御者が邪魔か」
 そう聞こえた。跳ねる馬車の騒音の中で、その声だけがやけにはっきりと。
「ハンス! 御者が――」
 叫んだ瞬間、何かが客車に飛び乗ってきた。千宏は姿勢を低くして座席にしがみ付いたまま、小さな格子窓から見える御者の小さな背中に視線を投げる。その上から、二本の腕がぬるりと伸びてくるのが見えた。
 ヒトの手。そう思ったのとほぼ同時に、千宏は叫んでいた。
「おじさん! 上!!」
「頭を下げろジジィ!」
 ハンスの恫喝で御者が素早く頭を下げ、襲撃者の腕を白刃が切りつけた。痛みにひるんだ体が客車の上でたたらを踏み、そのまま後方に転落する。
 だが同時に御者が手綱の操作を誤り、振り回された客車が大きく斜めに傾いた。
 ――転倒する。
 衝撃を覚悟して、千宏は目を閉じ頭をかばうように縮こまった。それと同時か、あるいは一瞬速くか、ハンスが千宏の身体を抱え上げて客車の外に飛び降りる。
 腹から腰に抜けていくような浮遊感に見開いた千宏の目に、横転した勢いのまま引きずられる客車が飛び込んできた。
 粗末な作りの客車はもろく、衝撃で扉がもぎ取られガラスが乱雑に飛び散っている。勢いで放り出されたネズミの御者が見事に着地するのと同時に、ハンスは潅木の中に転げ落ちた。
「いったぁ……!」
「逃げるぞ! つかまれ!」
 枝で切った傷に気をやる暇もなく、ハンスが千宏を荷物のように担いで駆け出した。肩の上から落ちぬようにと慌ててハンスの服にしがみ付き、千宏は目を白黒させながら飛ぶように行過ぎる枯れた潅木を見る。砂埃に煙る視界の中、千宏は何か迫り来る影を見止めて悲鳴を上げた。
「ハ、ハ、ハンス! やばいヤバイなんか何か追いかけてきてる!」
「だろうとも……! おいジジイ! どこへ向かう!」
 ハンスが吼えると、どこかから返事があった。延々と広がる潅木に隠れて姿は見えないが、ネズミも併走しているらしい。
「あの森を抜けて有料街道を目指せ! 運が良けりゃ警備の猫が気付いてくれる!!」
「……運が悪いと?」
 千宏が恐る恐る訪ねた直後、ハンスが腰を落として高く跳んだ。雨が降ればここも川になるのだろう、ささやかな枯れ谷を飛び越えて対岸に着地し、また走る。
 瞬間、何かが弾けるような鋭い音が空気を貫き、千宏の鼓膜を震わせた。
 誘蛾灯の音に似ている。そう思った。事実、そのような音だったのだろう。大きく首をめぐらせて、千宏は空中を凝視した。
「――おじさん!」
 ネズミが高く宙を舞い、そのまま地面に叩きつけられる様子がやけにゆっくりとして見えた。その年老いた小さな体は、地面に落ちたきり動かない。
 たんぱく質の焼けるにおいがした。
「トラップか――! これだから虎の巣は……!」
 忌々しげにハンスが唸り、千宏はようやく状況を理解する。
 ああ、トラップか。と、ただそう思った。頭に浮かんだのはバラムの森。そしてテペウの傷と、カアシュの足。
「投げるぞ、チヒロ!」
 ハンスの声が聞こえた瞬間、全てが緩やかに進んでいた千宏の世界が再び高速で動き出した。
 投げる? と聞き返すより先に、千宏の体は鞄か何かのように投げ出され、乾いた土の上を転がりながら潅木の中に突っ込んでいた。
「死ぬ気で走れぇ!!」
 ハンスが声の限りに叫ぶのと、千宏が落下の衝撃から立ち直るのとはほぼ同時だった。打ち身と擦り傷から来る痛みで足が激しく震えたが、それでもどうにか立ち上がる。
 そして。
 バチン、と音がした。
 夏の夜道で唐突に弾けるこの音が、虫を殺す音なのだと知ったのは十になったばかりの頃だったように思う。夜道にぼんやりと浮かぶ青い光がとても綺麗で、ふらふらと寄っていったら「虫みたいだ」と父親に笑われたのを漠然と覚えている。
 だからと言って、何も虫に親近感を抱いて生きていたわけではない。夏の夜道でバチバチと音が弾けても、ただ「ああ虫が死んでいる」と、そう思う程度のものだった。
 ああ――虫が死んでいる。
 千宏は呼吸を止めて背後へと振り返った。
「ハンス……」
 黄色く乾燥した地面に、青灰色のイヌが死体のように転がっていた。身じろぎ一つしないその体から、何かの冗談のように細く白い煙が上がっている。
 死ぬ気で走れと、そう聞いた。そうすべきだったのだろう。そうするつもりでもあった。
 だが、立ち止まってしまっては――。振り向いてしまっては。躊躇してしまっては。
 すう、と大きく息を吸う。
「ハンス!」
 叫んで、千宏はハンスの元へと駆け出した。だがその一歩が地面に触れる直前に、何者かに腕を掴まれ、荒々しく引き戻される。
「おおっと危ない! 足元をよく見ろお嬢ちゃん。そこを踏んだら相当痛いぜ? イヌの兄さんがおまえさんをぶん投げた意味がなくなっちまう」
 咄嗟に首をめぐらせ見上げた先に、場違いに明るい笑顔があった。
 陽光を受けて金色に抜ける蜂蜜色の短髪を、そこからのぞく黄色と黒の虎模様を、そして何より目を奪われるほど整ったその顔立ちを、千宏は瞠目して凝視した。
 ヒトの顔をしている。
 ぼんやりと思って、そうだろうとも、と心の中で首肯する。走る馬車に飛び乗り、御者の首を狙って伸ばされた二つの腕も確かにヒトの物だった。
 がっしりと引き締まった体を覆う滑らかな褐色の肌に、ふらふらと揺れるやわらかそうな長い尾。男らしく、だか中性的で無機質な美しさのある彫像のような顔立ち。どこか、ひどく懐かしい――。
「トラの……マダラ……?」
 他に言うべきことは腐るほどあったはずなのに、あらゆる罵声を押しのけて、そんな間の抜けた言葉が唇から零れ落ちた。
 トラはくしゃりと破顔し、耳に心地よい声で笑う。
「ああ、そう。トラでマダラ。で、盗賊。歓迎が手荒になっちまったなぁ、お嬢ちゃん。けど、話も聞かずに逃げ出そうってのが悪いんだぜ? 俺は別に、ネズミのジジイもイヌの兄さんも、怪我させる気は無かったんだからよ」
 乾いた土と潅木でひどく汚れた千宏のローブを大雑把に手で払い、男は倒れ付したまま動かないハンスと御者をちらと見やって軽く肩を竦めて見せた。
「怪我……? で、済んでるの? あれ。じゃあ、死んでないの? 二人とも?」
「ありゃ捕獲用のトラップだからな。大概の種族は気絶するし、まあ中には一生目を覚まさん奴もいるだろうが、今までアレで死んだのは見たことねぇな。毛は焦げるけど」
 千宏は心底安堵し、危うくその場に崩れ落ちかけた。たんぱく質の焼ける臭い――この臭いは肉ではなく、体毛が焦げた臭いか。
 安堵と同時に痛みと震えが襲ってきて、軽くふらついた千宏の体を男が支えてくれる。
 それから、
「おまえさん、トラ……じゃあ、ないよな? えらい細いし。ネコか?」
 無遠慮に肩や腰を触って首を傾げた男から大慌てで距離を取り、千宏はようやく男を鋭く睨み付けた。
「貧弱でどうも失礼。こう見えてもあたしはトラだよ。そんなことより、連れと御者の手当てをしたいんだけど……」
 言いながら、千宏は懐を探って小さな麻袋を男の胸に押し付けた。
 月々の生活費を小分けして入れてある、常用の財布である。ヒトを買う資金はハンスが「まず見つからない場所」に隠し持っており、その在り処は実を言うと千宏も知らない。
 男は麻袋を押し付けられ、間の抜けた表情で千宏を見返した。
「何だこれ?」
「見て分かるでしょうが。あたし達の全財産だよ。アクセサリーも外す? 安物のマジックアイテムだけど。それと連れの剣も持っていっていいから、殺すなんて不穏なことは言わないでよね……!」
「殺す……? おまえさんを? なんで。そんな勿体ねぇ」
「だってあんた盗賊なんでしょ!? しかも襲ってきたじゃない!」
「そりゃ盗賊だからな。縄張りに入ってきた馬車は襲うさ。だが殺す気だったら、わざわざ捕獲用のトラップなんざ張らずに速攻で殺してる。俺の仕事は、この道を通る馬車を襲って荷を奪い、獲物を生かして帰すこと」
 返すぞ、という短い一言と共に麻袋を投げ返され、千宏はわけが分からずまじまじとその整った顔立ちを見返した。
「仕事……って?」
 盗賊なのだから、馬車を襲う行為を仕事と呼ぶのは理解できる。盗賊行為を遊びか何かのように捉えがちなトラなのだから、獲物を生かして解放するという行動もわからなくはない。
 だが、どうも違和感があった。このトラが口にした「仕事」という言葉に、まるで誰かにそうするようにと指示されているかのような印象を受けたのだ。
 だが誰が、どうしてわざわざ盗賊に、獲物を生かして返してやれなどという指示を出すのだろうか。
 その時ふと、有料街道という言葉が千宏の頭に浮かんだ。先ほどネズミが叫んだ言葉だ。森を抜けて有料街道を目指せ――と。
 盗賊に襲われるのが嫌ならば、猫の役人が見張りに立って旅人を守る有料街道を利用すべし。そんな言葉や張り紙を、この国ではよく目にする。
 では、この盗賊は。
「まさか……行商人に有料街道使わせるために、国が盗賊を雇ってるってこと……?」
「へぇ、察しがいいな。国がっていうか、道の持ち主だがな。通行料の何割か収めてりゃあ、上も文句は言わないらしいぜ。有料街道っても、ネコなら格安で通れるしな」
 有料街道を通らなければ盗賊に襲われ、荷を奪われるが命までは取られない。しかしそうして襲われ、生き延びた人間は、次回から確実に有料街道を使うようになるだろう。
 千宏は顎を落とした。
「なんて腐りきった政治体制……! 拝金主義にも程があるでしょう!?」
「俺もさすがに度肝を抜かれたぜ。ふらっとここに住み着いて盗賊を始めてみたらよ、待ってましたとばかりに役人が現れやがった。俺が決められた地域でそこそこ適度に行商人を襲っていりゃあ、向うも取り立てて討伐しようとはしないって契約だ。申し出を蹴ったらネコの誇る桁違いの魔法部隊が討伐に来るってんだから、さすがに俺も受けるわな」
 言って、トラは愉快そうに胸を反らしてゲラゲラ笑う。
「ま、そんなわけで、最近は縄張りに入る馬車も減って退屈してたんだ。おまえさんは商人でもねえし、なんせ同族の女だ。金も命も取らねぇよ。代わりと言っちゃなんだが、ちょいと晩酌に付き合えよ。いい酒があるんだ! イヌの兄さんとネズミのジジイも手当てできるぜ? つってもせいぜい、軽い火傷程度だろうが」
 トラが長い腕を伸ばして軽やかに空を切ると、一瞬周囲の地面が眩しく光った。千宏が眩しさに目をそらすのとほぼ同時に光は消え去り、乾いた地面は何事もなかったかのように、一瞬前と変わらずそこに横たわっている。
「……何?」
「トラップを解除した。もう歩けるぞ」
 トラは潅木の中に無造作に入り込み、気を失ったまま動かないハンスの体をつま先で軽く小突いた。
「ネズミはチビだからまだいいが、こいつを運ぶのは結構手間だぞ。起きろよ、おい」
 トラが強い語調でハンスを呼ぶと、別の場所で飛び上がる影があった。ネズミの御者である。
「おじさん!」
 歓喜して千宏が叫ぶのも聞かず、御者は飛び起きるなり猛スピードで潅木を駆け抜け、あっという間に森へと飛び込んでいってしまった。
 瞬きする間もないとはまさにこのことで、千宏はあっけに取られて静かにトラに振り返った。
「ま、ネズミは大体ああだな」
 大げさに肩を竦めて見せて、トラはやれやれとハンスの体を抱え上げる。
 マダラの体でハンスの体重を支えるのはひどく難儀そうで、千宏も慌ててハンスの体を支え、トラのことを手伝った。
「手伝いなんかいらねぇよ」
「あたしの連れなんだから、まかせっきりには出来ないよ」
 不快そうに顔を顰めたトラの男に、千宏も顔を顰めて見せる。
 すると男はしばし千宏を睨み付け、すぐにどうでもよくなったように千宏と並んで歩き出した。
 
 

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