クロルの弟は次期当主だが、犬が怖い。
 ヴィクターの言う人物は次期当主と名乗ったようだが、犬を恐れる素振りなど見せなかったという。
 弟の犬嫌いが治ったのか、それともヴィクターが会った人物はクロルの弟などではなく、たんに嘘をついているのか。どういう理由で嘘をついたのかは分からないが、クロルには後者の可能性の方が濃厚なように思われた。
 だが、ヴィクターがあれほどはっきりと「お前の弟だ」と言い切ったのには少々引っかかる。いくらヴィクターが単純といはいえ、確信がなければああまで断定的な物言いはしないだろう。思考が整理できないまま、クロルは幼い頃に自分が育った家の門をくぐった。
 呼び鈴を鳴らし、メイドに次期当主との面会を願い出る。しかし外出中で一時間ほど戻らないというので、クロルは犬小屋のある裏庭で待たせてもらうことにした。
 しばらく裏庭をぶらぶらしていると、気を利かせたメイドが暖かな紅茶と甘いクッキーを運んできてくれたので、クロルはありがたく頂戴する事にした。
 木陰に置かれた丸テーブルは古ぼけており、少し埃をかぶっていたが、クロルが幼い頃に使っていた時のままである。そこに紅茶とクッキーをならべ、苦しげに軋む華奢な椅子に腰掛けると、ここで紅茶を飲むのが好きだったことを思い出してクロルは少しだけ苦笑いした。
 弟がいて、母がいて、母の友人の奥様と、その息子の兄弟がいて――。
 クロルは小さく奥歯を軋ませる。
「渋いな……この紅茶……」
 眉間に深く皺を刻み、クロルはティーカップをテーブルに置いた。

 弟が犬に噛まれた時の事を、クロルは今でもはっきりと思い出す事ができた。
 ネブロサスにしては寒い冬で、その犬は足を怪我してひどく気が立っていた。牙を向いて唸り声を上げ、近づく人間全てを激しく威嚇する物だから、学校帰りの子供達が教員に「怖い犬がいる」と訴えに行ったのだ。
 遅くまで学校に残り、図書室で本を読みふけっていたクロルは子供達の興奮した話し声を聞くともなく聞いていたが、ふと嫌な予感に襲われて窓の外を見た。冬の空はすでに暗くなり始めており、風もなくひどく静かだ。
 怪我をした動物を見つけると、何もできないくせにじっとそこを動かなくなってしまう弟のことを思い出し、クロルは落ちてゆく日に急かされるように学校を飛び出した。
 子供達に急かされて歩く教員を追い越し、誰かが自分を呼び止める超えも全て無視して家へと続く道をひた走り、そして悲鳴が聞こえた。
 甲高い少年の叫び声と、低く唸る犬の声。あの馬鹿、と心の中で罵って道を駆けると、血まみれの弟が牙を向いた犬に圧し掛かられ、大声を上げて泣いていた。
 銃声が轟いたのはその時だ。クロルが棒切れを拾い上げ、犬に殴りかかろうとするよりずっと速く、鋭い吼え声に似たその音は犬の身体を貫いていた。
 犬は弾かれたように高く、驚くほど高く飛び上がり、地面に落ちて絶命した。その犬がどれだけ苦しんだか、のたうちまわったかどうか、クロルはよく覚えていない。ただ繰り返される武勇伝ばかりが鬱陶しく、近所でもけむたがられていた元市警団の老人が、静かに銃を構えて立っていたことをやけに鮮明に覚えている。
 静寂と、引きつったような弟の泣き声だけが、その場を支配していた。
「だってかわいそうだったんだ」
 そう、弟は泣きながら訴えた。だから犬の威嚇を無視し、その身体に触れようとしたのだという。父は弟の短慮を激しくしかりつけ、弟は心と腕に一生消えない傷を追った。
 子供に当たるかも知れないのに発砲したことを責められた老人は、それでも弟の命を救ったのだから結局罪には問われなかった。
 弟は犬に近づけない。犬と、血と、銃声。それらが弟の恐怖の大部分を支配していることを、クロルはよく知っている。

「失礼ですが」
 不意に声をかけられ、クロルは弾かれたように顔を上げた。驚くほどの至近距離に、長身の青年が立っている。
 近づかれた事に気付かないほど、ぼんやりしていただろうか。自分の迂闊さに半ば愕然として、しかしクロルは平静を装ったまま青年を見上げた。青年は少し笑って、気弱そうに視線をさまよわせる。
「ええと……傭兵の方……ですよね?」
「……そう見えませんか?」
 咎めるように訊ね返すと、青年は慌てて首を振った。
「いえ、そういうわけでは……! 申し訳ありません……その、ご気分を悪くなさらないでください……。先ほどお見えになった傭兵の方は、その、いかにもという感じでしたので……」
「自分は頭脳労働が専門ですので。――あなたが次期当主の方ですね?」
「あ、はい。マティアスです。まだ、あくまで暫定ですが……」
「暫定……?」
 クロルは片眉を吊り上げた。
「他にも候補者が?」
「ええまあ……はい。ぼ……私はその、この家の人間じゃないので……」
 肩を落として、申し訳無さそうにマティアスが呟く。クロルは眉をひそめ、テーブルを挟んだ正面の椅子を示した。
「お座りにならないんですか? それとも、こちらが立つのが礼儀でしょうか」
「あ、はいそれじゃ……あの、失礼します」
 クロルの時よりいっそう辛そうに、椅子が鈍い音を立てて軋む。
「犬はお好きですか?」
「……え?」
 前置き無しに投げかけられた質問に、マティアスは目を瞬く。長い沈黙を挟んでから、ようやく苦笑いを浮かべて頬を撫でた。
「あの……いえ。あまり得意では、ないですね」
 言いながら、マティアスは居心地悪そうに両手の指を組みつほどきつしている。今にも立ち上がって、この場から立ち去ってしまいそうにさえ見えたが、クロルは構わず話を続けた。
「ではあなたは先ほどまで預かっていた犬にほとんど触れていないんですね?」
「ええ。恥ずかしながら、世話は全て使用人に……」
「使用人以外で、あの犬に長時間接していた人物は?」
「その……事件になにか関係が?」
「恐らく。今回の一連の事件は、寄生虫が原因である可能性が高い。しかもそれは宿主を移動するタイプで、犬に寄生したはずのそいつはすでに犬の中にはいなかった」
 長い沈黙があった。
 少しずつ、マティアスの表情が青ざめていく。
「……まさか」
「心当たりが?」
 何事か答えようと、マティアスが口を開きかけたその時、だ。
「マティアス! 貴様、またでしゃばった真似をしてくれたな!」
 甲高く、耳障りな叱責の声が鼓膜を貫き、クロルは思わず顔を顰めて振り向いた。
「エディー……!」
 同時に振り向いたマティアスが、どこか声を震わせて名を呟いて立ち上がる。
 勝手口からこちらへと大またで歩み寄ってくる子供の姿に、さすがにクロルは顎を落とした。
「……だからあいつ……ああ、こういう……」
 一人呟き眉間を押さえたクロルには構いもせず、エディーは威圧するように胸を反らせてマティアスの前に立つと、その青ざめた顔を睨み据えた。
「普段からして威厳がないが、今日はいつにも増して間抜け面じゃないか。私が恐ろしいなら勝手なマネはしないで頂こう。おい、次期当主に用があるというのはおまえだな? 知ってるぞ。ヴィクターの仲間の傭兵だろう」
 クロルはあまりの衝撃に口を開く事ができなかった。呆れと羞恥と驚愕が、どうしようもない激怒と共にクロルを襲う。こいつはこの尊大さで、ヴィクターに一体何を言ったのだろう。それを想像するだけではらわたが煮えくり返りそうだった。
 ヴィクターはこれを、この子供をクロルの弟と思い込んで――。
「このでしゃばりが失礼した。私こそが本当の次期当主だ。それでは話を――」
「黙れ」
 低く抑えた声で命じると、エディーは表情を硬くしてクロルを見た。
「……なに?」
「その口を、閉じていろと言ったんだエーディット」
 クロルがその名を口にした瞬間、さっとエディーが青ざめた。ゆっくりと立ち上がったクロルの顔を凝視して、気迫に押されたように一歩下がる。
「どうして……私の名前を知ってるんだ。お前が話したのかマティアス!」
「黙れと言ってるのが理解できないのかエーディット! 次に一言でもその無礼な口を開いてみろ、針と糸を持ってきてメイドに口を縫い付けさせてやる! お父様はおまえのその態度を容認しているのか? お母様はなんと言ってる! 他人どころか家族にさえ敬意を持って接する事ができないなんて、恥さらしもいいとこだ!!」
 怒鳴りつけられて肩を竦ませ、エディーは困惑と怯えの入り混じった表情に涙を滲ませた。何か言い返そうと口を開きはするが、震えた声がこぼれそうになるのが嫌なのか、結局言葉は出てこない。それでもクロルは、表情を和らげる事もなくさらに鋭く言い放った。
「下がりなさい。目障りだ。次期当主だなんて笑わせるじゃないか。礼儀の一つもわきまえられないおまえには、この場にいる権利すらない」
「わ……私は……!」
 ようやく声を絞り出し、エディーは目じりに溜まった涙を乱暴に拭う。
「わた、私は次期当主だぞ!? この家の正当な後継者だ! それをなんだ、おまえは……! なぜおまえなんかに、この私がそんな事を言われなきゃいけないんだ!」
「私の言葉が理解できない程度の知能しか持ち合わせていないなら、いっそうお前はこの場に必要ない。下がりなさい。これが最後だ。みっともなく尻を叩かれてつまみ出されたくなかったら、素直に言う事を聞くことだ」
 顔を真っ赤に紅潮させ、エディーは拳を握り締めた。ついにその瞳からは涙が溢れ、ぽたぽたと地面に大粒のしずくを落としている。
「エディー……ねえ、部屋で僕と少し話をしようか。暖かいココアを入れさせるから――」
「気安く触れるな!!」
 肩に触れようとしたマティアスの手を叩き落し、エディーは顔も上げずに駆け出した。部屋には向かわず、裏口から外へと飛び出して行く。慌てて追いかけようと足を踏み出しかけ、しかしマティアスは踏みとどまった。
「……あんなに、キツく言わなくてもよかったんじゃないかな……」
「僕として、どうしてもっと早くに叱ってやらなかったのかを聞きたいね」
 溜息とともに言いながら、クロルはフードを脱いでサングラスを外す。
「おかげで、僕の大事な妹があのざまだよ。いつからああなの、アレ。幼稚園児からマナーの授業やり直しじゃないか。っていうかなんなの……? あの、悪趣味な男装フェチが喜びそうな格好」
「姉さまのことが好きなんだ」
「だから模倣するって? 僕、家にいるときあんな格好してなかったと思うけどな……」
 マティアスは唇を震わせ、泣きそうになりながら微笑んだ。
「姉さま……帰ってきてくれたんだね……」
「不本意ながらね。あんまり驚いてないみたいだけど……?」
「姉さまがこの椅子に座ってるの見た時、もう十分驚いたよ」
「変装の意味無しか……お父様にはばれなかったのに」
 そうクロルが空を仰いだ瞬間、マティアスは我慢の糸が切れたようにクロルの身体を抱きしめた。
「ちょ……マティアス! ばか、よせ、苦しい!」
「お帰りなさい姉さま」
「マティア……」
「お帰りなさい」
 ただいま、と答える事はできなかった。
 クロルは帰ってきたわけではない。ただ、仕事をしに町へ来ただけなのだ。

   

 

 

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