港街の夜が騒々しいのは、トラ国もネコ国も変わらない。どちらの種族にも夜型の人間が多く、基本的な性格が享楽的で奔放なのだ。明日には出港を控えた男たちに、大人しくしていろと言う方が無理な相談である。
 だがそんなネコ国の夜の街が、ブルックはあまり好きではなかった。
 闇にひしめく魔洸の光より火の揺らめきの方が落ち着くし、誰もがみなよそよそしく、ひどく冷めた感じが気に食わない。
 何よりネコは自分の快楽にばかり貪欲で、抱いていてもひどく退屈だった。ならば羞恥に頬を染めて縮こまるネズミの方が可愛いし、最後まで快楽に抗う獅子の方が燃え上がる。さすがにテペウより女を抱いたと豪語することはできないが、少なくともカブラやカアシュよりは多くの女を抱いているつもりだった。
 だがネコの身勝手な貪欲さも、時には魅力に感じる事がある。ひたすらに、何もかもが面倒に感じる時だ。トラとしては感情が希薄なブルックにとって、何もせずともこちらの身体を玩具にして楽しんでくれるネコの女はいろいろな意味で楽だった。
 だが今は、恐らくそれさえも面倒くさい。
 濃い潮の香りに様々な臭いが混ざり合って無臭となり、意味のある言葉が絡み合って全て雑音に成り果てる。夜の街の只中で、ブルックはようやく足を止めて周囲を見た。
宿から随分と歩いてきたが、苛立ちは未だにおさまらない。ほぼ無意識に歓楽街へと歩いてきたが、そもそも女を抱くような気分ではなかった。どうしたいかは分かっている。だが、どうすればいいのかが分からない。
 カアシュが下した決断を撤回させる力を、ブルックは持っていないのだ。
「クソ……」
 その力を、なにより千宏が持っているという事実が。それがひどく忌々しく、忌々しく思う自分に腹が立った。
 どうして千宏にできることが。どうしてヒトにできることが。どうしてトラである自分にはできないのだ。自分がヒトに劣っているという事実が、どうしてこんなにも――。
 千宏の申し出を断ったカアシュを、ブルックは責められなかった。馬鹿な奴だと罵る事ができなかった。種族を差別しないと自負してきたのに、博愛主義を気取ってきたというのに、自分は結局“こう”なのだ。
 カアシュの脚は戻らない。カブラはカアシュの代わりを探す事はしないだろうし、自分だってそれを受け入れられはしないだろう。二人でハンターを続ける事は、きっとカブラが望まない。
 もう、結末は見えていた。
 自分にはどうすることもできない。だからこそなのだろうか。ひどく理不尽な悪意が芽生えるのを、ブルックは押さえられなかった。
 千宏さえいなければ――あの日、あの路地裏で千宏を見つけさえしなければ。千宏が狩についてきさえしなければ、ハンスを護衛に雇ったりしなければ。カブラとカアシュが仲たがいする事もなく、こんな事にもならなかったはずなのに。
 ブルックは突発的な衝動に逆らえず、拳を握り締めると手近な壁を殴りつけた。積み重ねられた古い煉瓦はひび割れて一部が崩れ、破片がぱらぱらと地面に落ちる。
 酒が必要だった。喉と胃を焼け爛れさせるような強い酒を浴びる程に飲まなければ、煮えたぎる衝動は収まらない。適当な酒場を探して周囲に視線を走らせ、ブルックは見覚えのある後姿を見つけて瞠目した。
 灰色がかった薄青の毛並みに、深く濁った沼色の瞳。小柄なネコや雑多な種族でごった返す歓楽街に、恐ろしく似合わないイヌの男。
「ハンス……」
 ならば、近くに千宏も。
「ハンス!」
 怒鳴るように名を呼んで、ブルックは弾かれたように駆け出した。イヌの聴覚と嗅覚でブルックの存在に気付かないわけがないのに、ハンスは振り向こうとすらしない。
 なぎ倒すように人々をかきわけ、ブルックはハンスの肩を掴んで乱暴に振り向かせた。
「チヒロはどこだ」
 脅すように唸るブルックに、ハンスは眠そうに目を瞬く。驚いた様子も怯えた様子も見せず、ハンスは小さく溜息を吐いた。
「……買うのか?」
 投げかけられた言葉は静かだった。毒気を抜かれて面食らい、ブルックは言葉を詰める。何を、とブルックが問う前に、ハンスは胸倉を掴んでいたブルックの手を振り払い静かに襟を正した。
「そうじゃないなら、今は仕事中だ。個人的に会いたいなら日を置いてからにしてくれ。チヒロは今“忙しい”んだ」
「なん……」
 ハンスはくるりときびすを返し、人混みに紛れてしまおうとする。
 千宏がこのネコの国でまで身体を売り続けていると、ハンスは今そう言ったのだろうか。だがそれがどれ程危険なことか、この世界の住人であるハンスが理解していないわけがない。
「どういうことだ……」
 思わず零したブルックだが、ハンスの背中はもう遠い。
「おい待て、ハンス!」
慌てて人混みをかきわけ追いかけると、ハンスがあからさまに面倒そうに舌打ちした。
「仕事の邪魔だ。ついてくるな」
「仕事っておまえ……ここはトラの国とは違うんだぞ!!」
「だからこそ、トラ国とは違って効率よく稼げる」
 きっぱりと言い放ち、ハンスは感情を殺した兵士の瞳でおざなりにブルックを見返した。
「それがチヒロの考え方だ。トラは一人の女にじっくりと時間をかけて取り組みたがるが、ネコは移り気で“楽しければなんでもいい”。だからチヒロはやつらに娯楽を提供する。この国には、この町には、“そういう場所”がはいて捨てるほど存在する」
 すぅと、ブルックは背筋が冷えていく感覚を覚えた。まさか、と呟いたつもりが、ただかすれた息だけが雑踏にかき消される。
 先ほどとは違う理由で、ブルックは同じ質問を繰り返した。
「チヒロはどこだ……」
「関係ないだろう」
「ハンス!! てめぇ――」
 かっとなってハンスを殴りつけようとした瞬間、ブルックは突如手首に激痛を覚えて低く呻いた。だが、ハンスは指先一つ動かしていない。何事かと振り上げた右手を見ると、その手首にガッチリと食らいついている小さな生き物が目に入る。
「……べ、ベアトラ……?」
 黄色の黒の毛皮も鮮やかな、一つ目の害獣である。
 それがブルックの腕に食いついて、あろう事がギリギリと歯をたてているのである。
「……歯なんかあったのか。こいつ」
 感心したようにハンスが呟く。と同時に食いつかれた腕からだらだらと血が滴り始め、ブルックは慌てて食欲の権化を引き剥がしにかかった。だがベアトラはどんなに強く掴んでも、あらん限りの力で引っ張ってもぬいぐるみのようにぐにぐにと伸びるばかりで全くはがれず、そのくせ噛み付く顎の力だけは尋常じゃなく強い。
「追い払うのも面倒だから連れて歩いてたが……役にたつものだな。暴漢対策に」
「アホなこと言ってねぇでこいつを引っぺがせ! おいまじで腕食いちぎる気だぞこいついてぇいてぇいてぇ! てめぇのペットなんだろうが、なんとかしろ!!」
「いいぞもっとやれ」
「そういうスタンスか……いいだろうこうなりゃ俺の腕ごとてめぇの命も道連れに……!」
 おびただしい量の血にまみれた腕で再度襟首を引っつかむと、さすがに命の危機を察したのかハンスがベアトラの頭をぽんぽんと軽く叩く。するとベアトラはあっさりとブルックの腕を開放し、血まみれの口元を長い舌でべろりと拭うとハンスの肩に飛び移った。
「トラは冗談が通じないな」
「てめぇはコレを冗談ですますのか? え? イヌってのはそんなに物事に無頓着な生き物だったか!?」
 言いながら、ブルックは見事に歯型のついた腕をハンスの眼前に突きつける。とは言うものの、出血はすでに止まりつつあり、1時間もすれば肉が盛り上がってくるだろう。トラとはそういう生き物だ。
「……トラか」
 ふと、なにか思いついたようにハンスが呟き、相変わらず眠そうな表情でブルックの頭から爪先までをざっと眺める。
「どうだろうな……試してみてもまあ、いいか……」
「あ?」
 怪訝そうに聞き返したブルックを無視し、ハンスは血で汚れてしまった自身の服を見る。
「どうせチヒロには怒鳴られるだろうしな……」
 溜息を吐き、再びきびすを返したハンスをこりもせず呼び止めようとしたブルックに、今度はハンスが先に振り向いた。
「仕事を手伝うなら、連れて行ってやる」
 そう言って、ハンスは歓楽街の奥へと顎をしゃくる。ブルックは間抜けに口をあけたまま言葉を失い、さっさと歩いていってしまうハンスを舌打ちと共に追いかけた。
 
***
 
 船の停泊中、一夜の快楽を求めて男達が群がる歓楽街は、多くの種族でごった返し、その嗜好は多岐にわたる。
 ヒトを抱けることを目玉とする店もいくつかあり、そんなうたい文句を見るたびにブルックは腹の底が冷えるような落ち着かない気分を味わっていた。
「その店だ。入ってろ」
「なに?」
 突然立ち止まったハンスの背にぶつかりそうになりながら、ブルックはハンスの指差す方にある店を見た。
 赤と紫の入り混じった魔洸の光が毒々しい、それなりの規模を持った店である。売春宿と言うよりは、ショーをメインにしている店のようだが詳しい事はわからない。
「俺はチヒロを連れてくる」
「まてよおい! いい加減に説明をしろ! 仕事を手伝うって一体……」
「求める結果を得たいなら、沈黙を保ち待て」
 鋭く言って、ハンスはとっとと行けとばかりに店を指差して歩き去る。こうなってしまっては今更引き返すこともできず、ブルックは小さく罵声を吐き捨てて店へと足を踏み入れた。
 扉をあけると途端に大音量の音楽が鼓膜を叩き、思わずブルックは顔を顰めた。ほぼ暗闇に近い明るさの店内に、色とりどりの照明がチカチカとまたたいている。どうにも落ち着かない雰囲気にふと近くの壁に貼り付けられた壁紙を見ると、そこには『ヒト世界に実在するクラブの雰囲気をお楽しみください』という旨が綴られていた。
「どうかしてる……」
だが、ブルックの感想とは裏腹に客入りはすこぶるよかった。広々とした店内を歩き回る客は種族も性別も様々だが、場末の安酒場に集まるような者とは違う事だけは一目で分かる。それなりに金を持っていて、退屈を持て余し、金の使い道を探して毎晩遊び歩く。そんな裕福なネコ達が集っているのだろう。
地下に向かって床を掘り下げてあるらしく、ブルックは一階から入店したのに下の階を見下ろす形で立っていた。下の階の右手にはカウンターがあり、正面には円が三つせり出した形のステージがある。その三つのステージ上でそれぞれ全裸に近い女たちが妖艶なダンスを披露しており、ブルックは我知らず口笛を吹いた。悪くないなと思ってしまう単純さが、やはりブルックもトラである。よくよく見れば酒を運ぶ女たちもみな薄絹一枚の格好で、飲み物を運ぶついでに尻や胸を触らせては客から金銭を巻き上げているようだった。
「ヒト世界の店はみんなこういうもんなのか」
 貧弱なヒトのイメージとは随分かけ離れた店の雰囲気に奇妙な感心を覚え、ブルックは手すりに寄りかかってショーを眺める。しかしなるほど、この店でならばそれ程危険もなく、効率的に上客を見つける事ができるだろう。だがネコはずる賢く、なにより強力な魔法がある。ハンス一人では少々不安があるため、保険としてトラである自分を護衛に引き入れたのだろうと、ブルックは結論付けた。
 そこでようやく、ブルックは自分が千宏に会おうとした理由を思い出した。いやそもそも理由などという大層な物はなく、ただ悪意をぶちまけようとしていただけである。
 ブルックは尻尾でぱたぱたと足を叩き、溜息と共にうな垂れた。
「みっともねぇことするとこだった……」
 血が乾いて塊はじめた腕を眺めて、ブルックは目頭を覆う。するところだったどころか、すでにみっともない事をやらかしたのである。
 無自覚に、恐ろしく現状に執着していた。あの二人の存在に依存していた。その気になればいつでも一人に戻れると思っていたのに、いざ奪われそうになるとその原因を無理やり外部に見つけだし、腹いせにぶちのめそうとやっきになっていたのだ。悪いのはなによりも、自分達自身に他ならないと言うのに。
 一人で自己嫌悪に陥っていると、すぐ後ろで店の扉が開いた。ブルックの後からも客は続々とやって来ている。今度もその一人だろうと思って振り向きもしないでいると、聞きなれた声を耳が拾ってブルックは顔を上げた。
「うわぁ。ほんっとーにブルックだ」
 驚いたというか、呆れたと言うか、そんな口調で少女の声が溜息を吐く。ふりむくと、フードを目深に被った千宏がハンスの傍らに立っていた。
「……久々」
 気まずさもなにもなく、当然のように千宏が笑う。ブルックはそれに「おう」と短く返しただけで、ハンスの方へと視線を投げた。
「……で?」
 仕事の内容はすでに察しがついているが、確認のつもりでハンスを促す。するとハンスはふいとブルックから視線を外し、階下へと伸びる階段を見た。誰かが上がってくる足音を聞きつけ、ブルックもそちらへと振り返る。
 きちんとした身なりの、場の雰囲気に似つかわしくない物静かなネコの女性が立っていた。優しげな唇におっとりと笑みをたたえ、ハンスに軽く会釈する。
「準備は整っています。そちらの女性が……?」
 ハンスが無言で頷くと、千宏は静かにフードを脱いだ。すでにつけ耳をつけていない。
「それと、“口きり”はこいつでいいか」
 ハンスがブルックを指差し、ネコの女は笑みを湛えたままブルックを見る。あら、と口元をほころばせ、女は楽しげにハンスを見た。
「とても素敵ですわ。私の方がうずうずしちゃう」
「おい、何の話だ?」
 ブルックになんの説明もないまま勝手に安堵しているハンスに、さすがに語調を強めて訊ねると、千宏が片眉を吊り上げた。
「説明してないわけ?」
「チヒロに会わせる代わりに仕事を手伝うって約束で連れてきたんだ。どうせやることになるなら、事前に内容を説明しても二度手間だろう」
「そりゃ、効率主義だこって……」
「褒めたのか?」
「呆れたの」
 ションボリと、ハンスが尻尾と耳を伏せる。
 千宏は一つ溜息を吐くと、ブルックを見上げてもう一度溜息を吐いた。
「あたし、ショーに出るんだ」
「……なに?」
「あそこの舞台でね、犯されるの。そういうショー」
 千宏の言葉が右から左に抜けて行った。千宏が余りにも当然のように語るので、トラ女がショーに出るのだと自慢した時と同じように「そいつはすげぇ」と条件反射的に言いかけた程である。
「でね、オークション形式で、あたしを抱きたいお客を先着で五名様募集するの。そのショーでの相手役を、ブルックにやってもらうって、そういう話」
「もちろん、賃金はお支払いします」
 あくまで優しげに微笑みながら、ネコの女がブルックの胸板に指を這わす。
笑い飛ばすべきだろうか、それとも激怒するべき場面なのだろうか。ブルックは固まったまま何も言う事ができなかった。
 千宏を抱くという時点で、現状では少々どころか恐ろしい抵抗を覚える。そのうえこれほど大勢の人前で、ショーとして千宏を抱き、その結果千宏は他の客に買われていく。
「そんなこと……」
「できないとは言わせないぞ。約束だ」
 ハンスが鋭い視線でブルックを睨む。
「まあ別にブルックが断ったところで、代わりを連れてくればいいんだけどね」
 千宏が肩をすくめると、ネコが残念そうな声を出す。ブルックは頭を抱えてよろめいた。
「なんで……そんなこと……」
「すごく稼げるんだよね。目玉のショーで人も呼べるから、お給料一杯くれるって言うし」
「いい加減にしろ! なんだってそんなに金がいる。てめぇはヒトだろう。アカブんとこで大人しくしてりゃ、金なんて一セパタだって必要なかったはずだ!!」
「関係ないでしょ」
 静かな表情できっぱりと切り捨てられ、ブルックは声と共に息を飲み込む。
「簡単に考えていいよブルック。あたしはヒトで、あんたはトラだ。抱いてみたくないの? 男になれたヒトメス体」
 励ますように笑う千宏の背後に、店の外へ続く扉が見える。あの扉から出るのは簡単だ。だが、欲望とは違う何かがブルックの足をこの場所に縫い付ける。
「……俺でいいのか」
 ただそれだけ訊ねると、千宏は少しだけ困ったような表情で首をかしげた。
「実はね、あんまよくない」
 そして小さく笑い出す。
「でもま、安心だよね。あんたなら」
 ブルックは天井を見上げ、ついでハンスに深く頷いた。
「受けよう。約束だ」
「では、控え室にご案内しますわ」
 ネコの女が嬉しそうに手を叩き、即座にブルックの腕に絡み付いて歩くように促した。
 この言葉は、きっと言うべきではないのだろう。自分は気づいていないふりを押し通さなければならない。だがそれでも、ブルックには言わずにはいられない言葉があった。
 恐らく今しか言うチャンスは無いだろうから、少し不自然かもしれないが――。
「チヒロ」
「うん?」
「……ありがとう」
 背後で千宏が立ち止まるのを意識しながら、ブルックは振り返らず、ネコの女に連れられるまま階段を降りた。
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