生贄の森 一章-2

   
 

 人狼は普通の銃弾や刃物では死なず、銀の銃弾でのみ傷を受ける。数頭の群れで森の奥に住み、狼を従え、小さな村を襲っては家畜や子供をさらって食らうのだと、書物庫の本はいくつもの実例を上げて述べていた。
 どういうわけか、父の書物庫には人狼についての本で溢れていた。興味を持って探したことがなかったので今まで気がつかなかったが、これら全ての本を読めば、人狼について知らぬ事はないと断言できる程だ。
リーリアは目に付く限りの本を棚から引き出し、片端から興味のある部分だけ読み散らかした。人狼が村を襲った事件。その人狼を殺す人々。人狼の首を高々と掲げている狩人の絵。
「狩人が人狼の首を落とし、耳と鼻をそぎ落とした頭を見せしめとして掲げると、手下の狼どもは唸り声を上げた……しかしそれは愚かな行為だった。狼どもはそれによって復讐心を激しく燃やし、あろうことか狩人の家族を選んで襲うようになったのだ」
声に出して読み上げ、リーリアは息を呑んだ。
「人狼を狩る事は、人間を殺すよりはるかに困難だ。人狼は人間よりも頑丈で力強く、そして人間と同等の知恵を持つ。中には人間の言葉を……理解する固体も……」
 リーリアは立ち上がった。
 なんと恐ろしい事だろう。それほどに賢く、そして強い生き物に、猟師達はこちらから攻撃を加えてしまったのだ。
 リーリアが燭台を持って地下室の階段を駆け上がると、なにか怒鳴りあうような声が聞こえた。ぎくりとしてドアをそっと押し開けると、どうやら玄関ホールの方かららしい。
「あんたには失望したよイグナート! 馬鹿馬鹿しいにも程がある!」
「我々の責任だと言うのならばそうだとも! ならばもういい! あんたなど頼ろうとは思わん!」
「自分達で人狼を狩ってみせるさ! 俺達は元々狼を殺して生きてきた! あんたの指図などもう受けん!」
 ついで、扉を叩きつける音がする。リーリアがそっと顔を覗かせると、階段の中ほどで渋面を作っている父の姿があった。
「……お父様?」
 声をかけると、父――イグナートは静かに顔を上げた。
「リーリア……どうしたんだ? 埃まみれではないか」
「はい。地下室で、本を読んでいました」
「本?」
「人狼の本を」
 イグナートはわずかに眉を上げた。
「教会に、人狼が出たと駆け込んできた男性がいらっしゃいましたので」
「そうか……では、もう町中に知れ渡っているのだな」
「子供達が、きっと親に話すでしょうから……あの、お父様」
「うん?」
「人狼狩りを……なさるのですか?」
 イグナートは顔を顰める。それからリーリアについてくるよう促すと、ゆっくりと階段を上りはじめた。
 イグナートの書斎は階段を上りきったすぐ左手にある。来客者用に座り心地のよいソファがあり、黒い光沢を持った木製のデスクがある。棚には様々な本や資料が並び、実によく片付けられているが、その部屋の中心で、来客用のテーブルが無残にひっくり返っていた。
「これは……」
「人狼狩りをするので、支援をしろと言われてな」
「……お断りになったのですね」
「ああ。話を聞く限り、人狼に非はない。むしろ謝罪すべきは我々の方だ」
「人狼が、私達の謝罪を受け入れてくださるのですか?」
「少なくとも、交渉には応じてくれた」
 事も無げに父が発した言葉に、リーリアもまたかすかに微笑んだ以外の反応は示さなかった。
「驚かんのだな」
「いいえ、驚いていますわ。少なくとも、半分くらいは」
「では、もう半分は?」
ああ、やっぱり。と。お父様は私が生まれる前、狼の森に一人取り残され、無事に帰って来た事がおありとか。その時に、人狼となにか交渉なさったのですね?」
「ボリス牧師だな?」
「はい。実を言いますと、私の予想と言うよりはほとんどボリスさんの予想ですの。ただあの方は、お父様は狼と会話が出来るのだと考えていましたけれど」
 本当の事を言ってしまえば、リーリアでさえ最近まではそうと信じていた。だが地下室にある人狼に関する本の多さは、さすがに尋常ではない。そして人狼の存在を知らされた今も、イグナートは少しも驚いた様子を見せていなかった。どんな時だろうとこの男は冷静さを繕っているが、リーリアには父のほんのわずかな動揺でも察する事が出来る。
 亡き母から譲り受けた鋭い勘だった。
「森の中でな……傷ついた狼に出会った。家畜を盗ろうと村に近づき、猟師の罠に捕まったのだ。私たちは当時交易が出来なかったので、食料をほぼ狩猟と家畜に頼っていた。そのため元々森に住んでいた狼達が獲物を失い、飢えて家畜を狙うのは無理もない。私は若い狼を解放したが、彼は私を襲おうとはせずに走り去っていった」
「それが、人狼だったのですか?」
「いや。それはただの狼だった。私よりもはるかに小さい。雪のせいもあり私はその時道を失っていて、見つけた猟師の罠を基点にぐるぐると森を回っていた。どちらが村の方角か分からなかったんだ。完全に日が落ち、ついに何も見えなくなった時、狼の唸り声が聞こえた。明らかに害意をもった狼が、群れを成して私を追いかけ始めたのだ。――待て。まずこの惨状をどうにかしよう」
 イグナートは思い出したように言い、ひっくり返っているテーブルを起こす。リーリアは散らばっているティーカップをとりあえず拾い集め、正しく設置しなおされたテーブルに置いた。
 イグナートはメイドを呼び寄せてカップの片付けとお茶を頼むと、柔らかなソファに腰掛けた。リーリアもその正面に腰を下ろす。
「それで、どうなりましたの? お父様は食べられてしまったんですの?」
「もしそうなら、今お前の正面に座っている私は誰だ?」
「ただの冗談ですわ」
「冗談?」
「笑ってくださってもいいんですのよ?」
 イグナートは眉間の皺を深くする。この父を笑わせた事があると言うのだから、亡き母はよほど冗談がうまかったのだろう。だが、どうやら自分にその才能は無いらしい。リーリアは溜息を吐いた。
「お話の続きをお願いしても?」
「ああ……逃げているうちに、私は丁度雪をしのげそうな木の洞にたどり着いた。気付くと、あれ程執拗に追いかけていた狼はもういない。私は呆然と立ち尽くした。そこに現れたのが人狼だった。夜の闇の中だ、はっきりと姿を見たわけではないが、彼は私に若い狼を救った礼を述べ、村までの帰り道を教えてくれた」
 それで、とイグナートは続ける。
「狼に追い掛け回され、私は興奮状態だった。恐怖も何も考えず、私は人狼に向かって馬車を襲わないでくれと叫んでいた」
「待ってください。その人狼は、人間の言葉を話したんですの?」
 理解する、という話は確かに本に載っていた。だがまさか、人間と同じように喋るだなんて、とてもすんなりとは受け入れられない。
 しかしイグナートははっきりと頷いた。
「私も後になって愕然としたが、その時はまるでそれが当然のようにさえ思っていた。人狼は言った。人間を襲わなければ狼たちは飢え死にすると。だがもし交易を始める事が出来れば、我々は食料を狩猟に頼らずに済む。そうすれば狼達の獲物も元通りに増え、人間を襲わずとも済むはずだ」
「そう、人狼を説得なさったのですか?」
「馬鹿馬鹿しいかね」
 リーリアは首を傾げる。そして少しだけ微笑み、
「ええ。とても。――正気の沙汰とは思えませんわ」
 イグナートも眉間の皺はそのままに、少しだけ口角を持ち上げる。
「ああ。私は正気を失っていた」
 その結果生まれたのが、狼との共存という狂気の沙汰であった。
 だがそれで上手くいっていた。二十年もの年月を、ヴォルカグラスと近隣の村々は平和に生きてきた。
 だが、それを喜ぶ者ばかりではかったのだ。
 狼を狩れない。それは、狼の狩猟を生業としてきた猟師にとっては死活問題であった。狼を狩る猟師達は、珍しいその毛皮を町まで運び、高値で売ってそれなりの生活を送っていた。
 それが突然、『狼はもう人間を襲わない、狼と共存しよう』などと言われて、素直に従えるわけがない。そもそも彼らは、狼が馬車を襲う事で恩恵を受けていたのだ。狼狩りの報酬、狩った毛皮を売った金、そして馬車に対する護衛金。狼狩りをする猟師は、町の誰よりもいい生活を送っていた。
 だが、狼を主に狩る猟師は少数だ。狼との共存は、それ以外の全ての人間に恩恵をもたらす。隣町まで仕事に行くことが可能になり、猟師たちは少しの狩猟で多くの糧を得られるようになった。狼狩りをする猟師達の憤りは多くの感謝の言葉にかき消され、そして彼らは沈黙した。
「問題は……今日やってきた村長達の半数が、元々は狼狩りをしていた猟師だということだ」
 イグナートは吐き捨てるでもなく、ただ書類を読むような冷淡さで言った。
 狼を狩る猟師は尊敬を集めた。それは勇気と知恵と強さの証であり、金だって他の猟師とは比べ物にならないほど持っている。いつしか彼らはリーダーとなり、村長の子供達もまた、狼狩りをする猟師となった。
 すなわち町長であるイグナートは、村長達の半数に憎まれていると言っても過言ではなく、しかしそれを表立って口に出来ない村長達の鬱憤は溜まる一方だっただろう。
 そこへこの事件が起こり、イグナートは人狼狩りに反対した。村長達が怒りを爆発させ、イグナートを腰抜けだと罵るのは必然であった。
「自分達で狩ると……そう言っていたのを聞きました」
「ああ。止めてはみたが無駄だった」
「お父様から、人狼に逃げるようにと伝える事はできませんの?」
 イグナートは首を振る。
「今まで何度も人狼に会おうと森に入ったが、この二十年間一度も出会えなかった。今回、恐らく人狼は家畜を襲ったはぐれ狼を粛清しに、村の付近まで出てきたのだろう」
「それを、猟師が攻撃してしまったのですね」
「突然人狼に遭遇し、動揺するのは無理もない。発砲してしまった猟師は余りにも不用意だが、問題はその後の対応だ。彼らは人狼への恐怖に捕らわれ、私の話に耳を傾けようとしない。人狼はもう二十年も前からあの森に住み、むしろ我々を守ってくれているというのに、それを傷つけた挙句に狩り立てるなど、許されることではない」
「ですがもし、今回の事で人狼が腹を立て、人間を襲おうと考えていたら……」
「無論その可能性も否定はできん。だが人狼は、銃弾を一発食らっただけで誰も殺さずに逃げたと聞く。村長達は怯えて逃げ出したのだと考えているようだが、銀の銃弾でしか死なぬ人狼がその程度で怯えるものか。彼は人間を傷つけまいとして逃げたのだ」
 イグナートは村長達のことよりも、余程人狼を信頼しているようだった。それも当然、人狼は二十年もの間イグナートとの約束を守り続けてきた。例え言葉を交わさずとも、その信頼は深く強い。
「だがもし、人狼狩りの者が森に入れば、今度こそ人狼の怒りに触れるやもしれぬ。それは絶対に避けねばならん。私は今からもう一度彼らの説得に向かう」
「それでもダメだったら……」
「実力行使もやむをえん」
 リーリアは口元を両手でおおい、ボリス牧師にならって祈りの言葉を口にした。


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