生贄の森 一章-1
リーリアの父は厳しさの象徴のような男だった。
冬の寒さが町長の眉間の皺を深くするのだと町の人々は囁きあい、狼の群れでさえ町長に睨まれれば逃げ帰ると噂しては、厳しすぎる町長に尊敬や愛着の視線をおくる。
彼は町の人々の愛されていた。
だからこそ、慈愛の女神もかくやの優しさを持つ、町一番の美女が彼の元に嫁いだ時も、人々は町を上げて祝福した。
町長の眉間の皺は相変わらず深かったが、キスをしろとはやし立てられて真っ赤になっていた姿は今でも語り草である。
二人の子供はどんな子だろう。男ならば美男だろうし、女の子ならば絶世の美女になる。そう予言されて生まれてきたのが、二卵性の双子だった。
母に似て穏やかな兄と、父に似て厳しい妹。どちらの子供も絵画か人形のように美しく、二人は町の人々の自慢だった。
「誰もリーリアの心を射止める事などできはしない。あの兄とあの父を見てみろ、あれに敵う男がこの町のどこにいる!」
酒場では男たちがそう嘆き、事実リーリアは恋をしたためしがなかった。
もちろん、リーリアだって興味がなかったわけではない。だがリーリアを『雪の結晶』と呼んで誰もが距離を置こうとするこの町では、まともに恋などできようはずがなかった。
ヴォルカグラスは狼の森に囲まれた小さな町だ。
主な産業は農業と狩猟だがそのどちらもぱっとせず、裕福な町とは言いがたい。
過去には森を切り開いて隣国へと続く街道を作る計画があったがそれも立ち消え、名残のように形ばかり立派な教会が建っているのが、唯一の特色と言えば特色だった。
その教会に、ボリスという名の老牧師が住んでいる。
七十歳を目前にして実にかくしゃくとしたこの老人は、毎日教会の裏の畑を耕し、それが終ると子供たちを集めて色んな話を聞かせてくれた。
長く連れ添った妻に先立たれ、子供に恵まれなかったボリスにとっては、町の子供たち全てが自分の子供だったのだろう。学校の勉強が分からず毎日泣いていた少年がボリスの指導で成績優秀者になってからは、多くの子供がボリスに勉強を教えてくれと押しかけるようになっていた。
この老牧師の元に、リーリアは周に一度、子供たちと触れ合うために通っている。
たまには先生の真似事もするリーリアだが、大体は子供たちに混じってボリスを囲み、さあ話を聞かせてくれとせがむ側だった。
「過去に私たち人間は、狼の森を切り開き、この町を作りました」
細く尖った顎を撫でながら、ボリスは老人らしからぬ豊かな声で静かに話す。
礼拝堂の片隅の、暖房のすぐ近くである。ボリスは一人丸椅子に座り、子供たちはそれを囲んで直接床に座っている。もちろんその輪の中に、リーリアもちゃっかりと腰を下ろしていた。
「そして狼の獲物である動物を奪い、飢えに苦しむ狼さえも駆り立てた。無論狼は怒り狂い、ついには人間を襲って食うようになりました」
子供たちは互いに手を握り合い、怯えた目をしてボリスを見る。町といえども、少し道をはずれれば森はすぐそこだ。子供たちはみな、狼の恐ろしさをよく言い聞かせられている。
「人間と狼は対立していた。しかしその対立を終らせ、共存を生み出した偉大な人物がこの町には住んでいます。イグナート・ドラガノフ。誰だかわかりますか?」
「町長の名前!」
ボリスの質問にいち早く、一人の子供が鋭く答える。ボリスは深く頷いた。
「その通り。本来ならばこの町は、もっと貧しく飢えに苦しんでいたでしょう。狼の森に囲まれ、森を貫く道はろくに舗装もされていないこの町には、行商人も寄り付かない。しかし町長は狼に獲物を捧げることで、狼の驚異から人々を守る事に成功したのです」
町長がどうやって森の狼たちにルールを覚えさせたのかは誰も知らない。だが狼の森の外へと続く街道を通る前の晩に森に獲物を捧げれば、狼は決して人間の馬車を襲わなかった。
そのおかげで、町の商人たちは大きな街まで品物を売りにいけるようになり、他の町からも商人がやってくるようになった。
狼の森に囲まれた恐ろしい町ヴォルカグラス。それが今や、狼の加護を受ける町と呼ばれるようにさえなっていた。
「狼は恐ろしい生き物ですが、とても賢く、愛情深い。むやみに森から追い立てようとすれば狼の怒りに触れ、我々は毎夜彼らの遠吠えに怯えなければなりません。町長は決して狼を軽んじず、尊い同居人として扱っている。あなたたちも狼を恐れるだけでなく彼らを愛し、そして尊敬する心を忘れてはいけませんよ」
「でも、狼を全部殺しちゃえば、そんな面倒くさいことしなくてすむよ」
すかさず、鋭い音が礼拝堂に響いた。ボリス牧師が手にした本で、少年の頭を引っぱたいたのである。
「いってーよこの暴力牧師!」
「暴力とせっかん全く別の物です! 例え冗談だろうと、そのような事を口にしてはいけません。いいですね?」
少年はきぃきぃと甲高い声を上げて文句を言うが、牧師はどこふく風である。その光景があまりにも微笑ましくて、リーリアは思わず小さく吹き出した。
「町長って、お姉ちゃんのお父さんなんでしょ?」
子供たちの中の一人が、思い出したように言ってリーリアを見る。
「あたし知ってるよ。町長は狼より強いんだって!」
「じゃあお姉ちゃんも、狼が怖くないの?」
「うそぉ! だって一人で森に入ったら食べられちゃうんだよ? 怖いよ狼!」
「おれ怖くないよ! 銃を持って入ればいいんだもん!」
わっと子供たちが騒ぎだし、リーリアはあれよあれよと言う間に子供たちに囲まれてしまう。
怖い、いいや怖くないと言い合う子供たちの真ん中で、リーリアは慌てて声を高くした。
「落ち着いてみんな。お父様だって私だって、当然狼は怖いわよ。ボリスさんが言ってるのはそういうことじゃなくて、ただ狼を怖がるだけじゃダメってこと」
「どうして怖がるだけじゃダメなの?」
「あら。だって怖いだけの生き物だったら、そいつをやっつけてやれ! って思うでしょ?」
「だって、怖いのは悪いからなんだ! 悪い奴はやっつけていいんだよ!」
子供たちは口々に、そうだそうだと声を上げる。リーリアはちょっと笑って、わざと大げさに溜息を吐いてみせる。
「怖い奴はみんな悪いやつだって言うの? そんなことはないわ。だってみんな、お父さんやお母さんが怖いでしょ?」
この質問には、子供たちの答が割れる。しかし怖くないと答えた子だって、両親に叱られるのが怖くて日暮れ前にはおお慌てて帰っていくのだ。
「怖いけど、いなくなっちゃえばいいとは思わないわよね? 美味しいご飯を作ってくれるお母さんに、肩車をしてくれるお父さん。いなくなったらさみしいもの」
「お姉ちゃんもさみしいの?」
ふいに子供たちの中から心配そうな声が上がる。
リーリアは目を瞬いた。
それからようやく、自分の母の死に思い当たる。もう五年も前の話だ。元々病弱だったリーリアの母は、五年前の冬に肺炎で死んだ。町の誰もが嘆き悲しみ、当時産まれていなかった子供でさえその事を知っている。
「そうね……」
呟いて、リーリアは少し考え込んだ。心を根こそぎ持っていかれたような虚無感と喪失感は、もう随分と癒されたように思う。
それでも、やはり。
「さみしい。凄くさみしくて、お姉ちゃん、時々泣いちゃうくらいだもの」
隣に座っていた少女が、心配そうにリーリアの手を握る。だけどね、とリーリアはその子を膝に抱き上げた。
「私には兄さんも、お父様も、ボリスさんも、それにあなたたちみんながいるわ。だから悲しくってもがんばれるの。私やボリスさんも時々あなたたちを怒るけど、みんなはお姉ちゃんのこと嫌いになる? やっつけてやるって思う?」
「思わないよ! だってお姉ちゃんが怒るの、おれたちが悪い事した時だけだもん」
「そうでしょ? 狼だってそれと一緒。狼の森に入って、彼らのお家を荒らしたりしなければ、狼は人間を襲ったりしないわ。狼は怖いけど、だからって全部やっつけようなんて思うのは、凄く悪い考え方よ。狼のことを考えて、尊敬して、そして愛してあげなきゃいけないの。でもそれは凄く勇気がいることだから、みんなにはできるかしら?」
「あたしできるよ!」
「ぼくだって!」
子供たちが一斉に立ち上がり、リーリアに折り重なるように突進してくる。その、柔らかな重みに押しつぶされて笑いながら悲鳴を上げ、リーリアはステンドグラスから差し込む光に目を細めた。
こらこらと、ボリスが慌ててリーリアの上から子供たちをどかしてくれる。
突然、弾けるような音が教会に響き渡った。全員が飛び上がって音の方へ振り返る。
重たい大扉の横にある古びた木戸の向こう側に、青ざめた顔色の男が立っていた。先ほどの音はどうやら、扉を乱暴に開け放った音らしい。
「人狼が出た」
開口一番、男は低い声でそう言った。
突然の言葉に目を瞬き、ボリスはリーリアと顔を見合わせる。
「……今、なんと?」
「人狼が出たんだ! 牧師さん、町長と話をさせてくれ!」
「そう怒鳴らないで、まず落ち着いてください。あなたは……村の猟師の方ですね?」
訊ねたボリスに、男は浅く何度も頷きながら教会に入ってくる。
ヴォルカグラスを取り囲む六つの村の住民は、町長に用がある時まず牧師のボリスを訊ねる。そしてボリスが自分の手に余る事件だと判断すると、初めて町長が出てくるのだ。
それにしても人狼など、今までこの近辺に現れたことは一度もない。人狼による恐ろしい事件はリーリアも本で読んだ事があったが、その驚異が自分たちに降りかかる可能性など考えても見なかった。
「狼狩りに行ったんだ。家畜を襲うはぐれ狼が出たんで、そいつを追っ払うために。でかくて、特徴のある奴だからすぐ見つけられると思って……」
「それが、人狼だったというのですか」
「いや、違う。家畜を襲ったのはただの狼だ。けどそいつを追って森の奥まで入ったら、とんでもなくでっかい……俺達よりでっかい狼が二本の足で立って、はぐれ狼を殺してた!」
「それで、その人狼は……」
「びびった猟師の一人が一発打ち込んで……けど逃げられて……」
「馬鹿な! 何もされていないのに、こちらから危害を加えたと言うのですか!」
半ば叫ぶように怒鳴りつけたボリスの声に、猟師が言い訳めいた言葉を連ねる。
ボリスは眉間に深く皺を刻んで渋面を作り、自分を落ち着かせるように祈りの言葉を呟いた。
「リーリア。子供たちを家に送ってあげなさい。私は少し、この方と話があります」
リーリアはさっと立ち上がり、不安げに囁き合っている子供たちを呼び集めた。
男は明らかに混乱しているし、人狼は狼を餌にしたりしないはずだ。猟師の勘違いと言う可能性もあるし、詳しく話を聞こうと言うのだろう。このただならぬ空気は、ただの勘違いだと笑い飛ばすには少々深刻すぎるようだった。
子供たちを全員家まで送り届け、リーリアが帰宅すると、町長である父に来客があるようだった。それとなく使用人に聞いてみると、六つの村の村長たちが全員集まっているのだと言う。
ならば、人狼は本当に森にいたのだ。リーリアは緊張で身が竦むような感覚を覚えた。
「人狼狩り……」
そんな言葉がふと頭に浮かぶ。リーリアはくるりと身を返すと、過去に読んだ記憶のある人狼の本を探して、地下の書物庫へと向かった。
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