SF百科図鑑

リイ・ブラケット『長い明日』ハヤカワSFシリーズ

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February 26, 2005

リイ・ブラケット『長い明日』ハヤカワSFシリーズ

長い明日プリングル100冊より、ブラケットの終末小説。このセレクション、破滅、終末ものが異常に多い気がするが、やはりイギリス人ならではの好みなのか。正直、やや食傷気味なのだが。
silvering at 22:13 │Comments(22)TrackBack(0)読書

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この記事へのコメント

1. Posted by slg   February 27, 2005 13:11
最近調子が悪く、なかなかノルマが進まない。
***
ところでノブレスオブラージュ(オブリージュとかオブリッジという表記もあり)というフランス語があり、10年ほど前舛添要一だか誰だかが中央公論だか何だかに書いた記事で「優雅なる無視」という意味でこの語を使っているのをみたことから、そういう意味だと確信して今まで使っていたのだが、確認したところ間違っていることが分った。ノブレスオブラージュとは高貴な者の責務という意味らしい。確かにオブラージュって英語だとオブリゲーションだから、ちょっと考えれば分ることなんだが。で、舛添だか誰だかが使っていた「優雅なる無視」は、英語でbenign neglectという言葉があって、それとの混同ではなかろうかということがわかった。
今まで、あまりにもレベルの低いことを言われて攻撃され、議論するのもばかばかしい場合に、得意顔でノブレスオブラージュと言ったり書いたりしていたわけだが、今じゃ顔から火が出る思い。うーむ、大学の先生だからって信用できるわけじゃないんだなあ。言葉を覚えるときは気をつけて確認しないと。
2. Posted by slg   February 27, 2005 13:34
駄目だ、日本語が読めない。特に古い文体がつらい。
興味を持続するために自分好みの文体に脳内変換しながら読むと続くかも。

第二章
その夜、幌馬車の下に寝転がったレンは、胸の中にうずく楽しい思いでなかなか寝つけなかった。外気は冷たいが、毛布は暖かく、夕食を腹いっぱい食べたので気分はよかった。長い一日だった。うとうとし始めると周囲の物が次第にかすんできて、心地よい暗闇の中に包まれてゆく。ふと、あの楽しいうずきが消え、再び緊張にとらわれた。イーソーの説教を思い出したのだ。
まもなくレンは、あたりの物音に聞き耳を立てた。父母は頭上の幌馬車の中でいびきをかいている。焚き火の消え残りが見える以外、この市場の周りは真っ暗だ。みんな寝静まっているはずだが、必ずしも静寂ではない。馬は動いており、馬具がかちゃかちゃ鳴っている。
小型の荷馬車が一台、がらがら音をたてて走っていく音が聞こえたり、どこかで大型の幌馬車が轟音を発し、それを引く馬たちが嘶く声が聞こえたりした。鹿革の服を着たあの若い赤毛の商人と同じく、メノ派の信徒ではないよそ者たちは、日が暮れるとすぐ伝道集会場に出発した。だが今時分に出発する連中は、要するに、他人に見られたくない連中だ。レンは眠気を払いのけた。そして、目に見えないひづめの音や、かすかな車輪の音を聞いているうちに、行くと言わなければよかったという気がし始めた。
&&&
3. Posted by slg   February 27, 2005 13:47
破滅後の世界を舞台にした小説のようだ。主人公らしきレン・コルターという少年は家族らとパイパーズランという村で育ったが、今はそこを離れ幌馬車であちこちを転々とし、キャンフィールドの定期市に来ている。彼らは、旧メノ派、新メノ派、アマン派のうち、新メノ派の信徒である。メノ派の信徒は、20世紀は少数の風変わりな人々と見られていたが、都市文明崩壊後の世界をうまく生き延びて(完全な部族社会が環境に最もよく適合)、急速に勢力を強めていた。レンはいとこのイーソーに説教集会場に行かないかと誘われる。父親から、あそこはろくでもないやつばかり集まるから行くなといわれていたレンは躊躇するが、いとこに笑われて、ついに行くと答えてしまう。
&&というのが今第1章を読み直して把握したストーリー。正直、昨夜読んだときは全く理解していなかった。脳が腐っていたのかもしれない。
で、第二章は、家族が寝静まった後、レンが集会場に行こうとする場面と思われる。
4. Posted by slg   February 27, 2005 14:08
投票内容
件数 場名 レース 式別 馬組 金額
(1) 中山(日) 11R 馬 連 ながし 軸馬:11
相手:08,13
各100円(計200円)
合計 200円
5. Posted by slg   February 28, 2005 04:16
電話関係でいろいろ調べものとかしてたら読む暇がなかったのでもう寝る。続きは明日。今日は84ページまで。日本語の本をこのペースはヤバいな。
6. Posted by alg   February 28, 2005 18:46
青息吐息で124ページ。
あまり面白くない。面白くなくてもやっつけ仕事でも流し読みでも、今日中に無理やり読み終わる。こんなつまらない本に何日もつきあってらんねえ。そこまで暇じゃないんだ。
7. Posted by slg   February 28, 2005 19:02
これまで大量の名作とされるSFを手当たり次第に読みまくってきて、ある法則に気づいた。非常に単純な法則で、古いものほど満足度の低い作品に当たる確率が高い、ということだ。
わが友人はかつて、エンターテインメントの真に「不易」な部分は時代の流れに左右されないから、自分が面白いと思ったものの源流を辿れば面白さの原点に辿りつける可能性が高い、との趣旨の説を唱えていたことがある(正確ではないので違ったらごめん)。この説には一面の真理があることも首肯できるものの、ことSFというジャンルに関しては、必ずしもそうと言えないのかもしれない。というよりもSFというジャンルの面白さそのものが「流行」なる側面に負っている部分が大きいということだろう。確かに、科学や文明に関するアイデアの面白さが中核にある作品は、どうしても日進月歩の現実の変化によって相対的に老朽化してしまうのだ。そして、私が読んできた大量のSF作品のうちかなりの部分が、悲しいかな、不易なる「物語の骨格」を大事にせず、表面的な奇抜なアイデアやテーマで客の気を惹くことだけに専心してきた結果が、大半の作品があっという間に古びてしまい読むに耐えないものになるという結果に結びついている気がしてならない。
だが、実際に自分で(物臭の私にしては)大量の作品を読んでみて、「古いSFほどつまらない」という事実を如実に実感している以上、それを見てみぬふりをするほど私はマゾでもなければSF信者でもない。今読んでつまらないものは、歴史的価値以外に今読み、今の文脈で評価する意味が見出せない。また自分で何か書こうというときの模範とすべき基本テクストになるとも到底思えない。せいぜいパロディやパスティーシュの素材を提供するのが関の山だ。
私の実感では、六〇年代の前後で、SFの平均的な小説としての質、満足度に根本的な断絶がある気がする。もっとはっきりいうと、「ニューウェーブ以前のSFはつまらない、満足度の低い確率が高い」。
したがって、プリングル100冊以後は、六十年代後の作品、特に最近の作品のみを重点的に読めば平均的満足度が高くなる可能性が高いといえるだろう。特に今まで読んだなかでこれはいいと引っかかった作家やそれと似た系列を追求するのが、効率的な快楽摂取法といえる。
もうちょっとの辛抱だ。そしたら好きなものだけを読めてバラ色の生活に戻れるぜ。
8. Posted by slg   March 01, 2005 00:02
なかなか面白くならず「長い明日」ならぬ「長い退屈」だと喉元まで出かかっていたのだが、肝心の謎の秘密施設の正体が明らかになって、やっと多少は興味が持てるようになった。とはいえ、米国政府が破滅後の文明復興に備え建設した原子炉と巨大コンピュータ、というタネは、今読むと「はあ? そんだけ?」という程度の感想しかない。
現時点でも維持されている本作の読みどころは、したがって、「都市文明を肯定するか否か?」という古くて新しい論点に関する突っ込んだ考察の部分と、都市文明崩壊後の世界に育ち、都市文明を知らず、ただそれに憧れる主人公が、都市文明の名残を少しずつ見聞しながらその精神に生じる変化のありようの描写の2点のみだろう。その観点から、後にミラーが「黙示録3174年」で徹底して描述する「崩壊後の文明再生の過程」のプロトタイプが本作で提示されている点は特筆されてよい。ただの「破滅後のサスペンス・冒険物語」に終わらない、硬質のSFらしい文明批評が展開されているのが、本作の美点なのである。後のバトラーの「寓話二部作」にもよく似た世界像が出てくるのだが、その源流も本作にあるのではないかと思いたくなる。
ただ、やはり、物語としては前半に不要な冒険小説的要素が入って冗長になっていることは否めない。たとえていうならば、「着眼点はよいのに前半の演出がまずいために初めのほうで視聴者を逃してしまい、後半でどんなに盛り返しても視聴率を回復できないテレビの連ドラ」(例、丁度いま日曜9時にやっている「Mの悲劇」)に似ている。

さて、ほめているようで実は貶すようなことをさんざっぱらかいたが、残り50ページほど。何とか今日中に読み終わりたい。
9. Posted by SLG   March 01, 2005 01:31
読了。前半の冗長さを除くと、よく出来た、味わい深い小説だと思う。
本作を一言で評すれば、少年の成長物語とからめて、「知を、科学文明を是認するか否か」という、倫理/宗教上の最も根源的な問いを考察する作品ということになる。「破滅後の文明再興」を扱った作品としては、ミラー「黙示録3174年」バトラー「種まき人の寓話」「タラントの寓話」などが思い浮かぶが、これらの作品と同じく本書も破滅後の秩序再構築の媒体として宗教が機能している点が面白い。ミラーの作品は人類の文明再興を自然の摂理の一環として巨視的観点から価値中立的に描述した作品、バトラーの作品は終末後の米国を一つの実験室のように用いて作者自身の思想を具現化する宗教を創造した作品(そこでは科学技術は拡張主義的な思想を実現する手段として位置づけられていた)、対し、本書の場合は、ファンダメンタルなコミュニティを抜け出して、科学技術の象徴たる憧れの地に辿り着いた主人公の少年が、自分と全く正反対の指向性を持つ少女と恋に落ち、揺れ動きながら、遂に独自の世界観を形作り成熟する様を描いた作品であり、その最終的結論は、「人類は科学技術という禁断の実を食ったが、食ってしまったものは後戻りできない、仮にそれが悪魔だとしても、悪魔に襲われないよう土地を縛り付けるよりは、悪魔そのものを鎖で縛り付ける方が望ましい」というものであった。要するに科学は悪であるかも知れないが、人類がその悪に滅ぼされないようにするためには人類を無知に戻すよりも、その悪をとことん理解した上で管理する方が得策であるということだ。これは作者自身の思想の代弁であるのかも知れない。
非常に知的な深みのある作品ではある。ハミルトンの夫人であり、冒険ファンタシイの多く書いていた作者だが、本書を見る限り、かなり知的で文学的な作家性を持っていたことがわかる。
しかし、惜しむらくは娯楽性に乏しい。その結果として、発表当時は新鮮であった本書のテーマも、その後の類書の氾濫と流行の終息によって現在はやや時代がかって見えてしまうことは否めない。したがって、必ずしも読後の満足感が高いとはいえないのである。特に、前半の冗長な冒険小説的部分のプロット状の必要性に疑義のあることも考えあわせると。

テーマ性  ★★★★★
奇想性   ★
物語性   ★★
一般性   ★★★
平均    2.75点
文体    ★★
意外な結末 ★★
感情移入力 ★★
主観評価  ★★(21/50点)
10. Posted by 手下X22   March 01, 2005 03:09
> 私の実感では、六〇年代の前後で、SFの平均的な小説としての質、満足度に根本的な断絶がある気がする。もっとはっきりいうと、「ニューウェーブ以前のSFはつまらない、満足度の低い確率が高い」。

乱入です。勘弁。

最近のテーマは「物語要素論」の先にある「流行不易論」な訳で、その立場からのSF観を一くさり。基本的にひむ狂兄貴の言われた事に同意。

簡単に言うと
娯楽性は物語要素論によって挙げた各要素により左右される。それは具体性のある記号・表象ではなく、抽象的属性に分類される。
抽象的属性とは、各本文[ほんもん]の中で千態万様な見かけを与えられるので一見探しにくいが、既出の「対立概念」などに代表される物語的な相対性を指し示す。これは物語や小説が帯びる辺幅皮相のジャンル等とは無関係であり、いわゆる「不易」なるものではないかという仮説を立てている。
具体性のある記号とは時流に乗ったその時期その時期の読者の興味をひくはやり物で「一過性」「流行」という事が出来る。

で、SFとしての面白さについて考えてみる。が、その前に
一、娯楽性と大衆性は分けて考える。
一、娯楽性は享受対象によってその意味、幅が大きく変わる。
一、大衆性は享受対象を擬似的に想定した上での商品価値の評定である。
と定義付けを行う。

まず、「大衆性のある娯楽」としてのSFはまず「不易」的な娯楽性であり、「SF考証」よりガジェットが重視される。(物語性の重視、「スターウォーズはサイコーのSFだ論」と理解されたい)
一方、いわゆる「マニア向け娯楽」といわれるSFは「大衆性」より「SF考証」で、「不易」的娯楽性は陳腐化したものとして忌避し、いかにトラディショナリズムを排斥するかという「新奇性」を重視する事で「流行性」が発生する。(特異・新奇性の重視、「スペースオペラという蔑称を是認するぜ論」)

不易は物語の根幹部分であり、露呈させると大衆性・分かり易さが増すのと引き替えに熟練読者を満足させる刺激が薄くなると言う難しさを持つ。流行は、ある意味時代との迎合性と言い換えられる物で刺激は強いがその消費・消耗幅は大きく時代の推移と共に早期に陳腐化する。

かつてのSFは「物語性ありき」だったので大衆的に過ぎ面白くない。ついでに言うと「流行」に当たる部分は完全に陳腐化している。
中途半端に古いSFは「新奇性」を追究した為に常に古びていく必然を負う。すると新しい物以外は面白くなくなる。
言い換えると、この考え方は「いずれにしても古い物はつまらない」という結論につながっている。

という事で、ニューウェーブ(既にnewではないが)より前のSFと以降のSFで個人的な満足度が変わる原因の一つは、SFが追った方向が大衆性か、その逆かという点にあるのではないか。
すなわち、古いSFは大衆性が強く「最大公約数至上主義」(みんなが楽しめるのがサイコー)という性質が強い、あるいは「定型化」「紋切り型」であり面白みを覚えられない。
一方マニア向け娯楽「SF」は「新奇性」「独自性」至上主義であり「鮮度」が命とも言え、古い物ではそれが既に陳腐化しているため、新しい物ほど面白いという事になるのではないかしら。

蛇足だが私にとっての今後の課題は「不易=物語性」と「独自性」「新奇性」(`[ノットイコール]流行)の追究であろう。面白い物は自分が生きている間位は面白い、と思いたいし。
11. Posted by slg   March 01, 2005 13:03
うーむ、なるほど。いつもながら読み応えのある投稿をありがとう。娯楽性と大衆性を厳密に分けて使うというのが非常にユニークで、かつ分析的で説得力があります。
娯楽性というのは、一般性のないものも含めおよそ何らかの読者の欲望(種類を問わない)を充足させる性質の事を指し、大衆性とはある程度(出版社がそれのみにアピールすることで飯を食えることを期待しうる程度に)大きなそれ自体として独立した市場を形成している「享受対象」に一般的にアピールしうる、時代の流れに左右されにくい面白さのエッセンスに類するものを指す、という感じにとらえましたが、よろしいでしょうか。
その観点から、ブラケットの今回の作品を正確に評価し直すと、「大衆性に乏しい(文学としての一般性はあるが、物語性が薄く、流行に流されない骨格の部分において、一般大衆へのアピールが弱い)。発表当時の流行(第二次世界大戦とその後の冷戦勃発による世界的な終末・核兵器への恐怖感に裏打ちされた、破滅、終末小説ブーム)の存在に照らすと、扱ったテーマや素材は、発表当時の当該流行に興味を持っていた読者の一時的興味に応えるに足るだけの娯楽性はあったが、当該流行の終息に伴い、その娯楽性は消失した」ということになりましょうか。

>ニューウェーブ(既にnewではないが)より前のSFと以降のSFで個人的な満足度が変わる原因の一つは、SFが追った方向が大衆性か、その逆かという点にあるのではないか。

この点ですが、そう言い切られてしまうと、何か違うような気も&&。どうなんだろう。
自分が今まで読んだ際の満足の理由を振り返ってみてみると、確かにアイデア、スタイル的な新奇性に負っている場合もあるんですけど(例、エンベディング、キャンプ収容)、やはり基本的には「面白い物語を読みたい」というのが根底にあるのも確かで、分類すると私の好みは、次の三パターンあるようです。
1 物語性がどうでもいいぐらいにアイデア、スタイルが凄い作品(例、ワトスン)
2 ベースに物語の面白さがあるが、アイデア、スタイルの面白さや洗練度も相当程度にあり、いずれが上位か甲乙つけがたい作品(例、プリースト、オールディス、イーガン、チャン)
3 ベースの物語が面白く、それが主体であり、アイデア、スタイルは必ずしも独創的なわけではないがベースの物語の面白さを陳腐に見せない程度のユニークさはある作品(例、アシモフ、ハインライン)
これに対し、アイデアやスタイルに新しさが全くなく、物語性オンリーである作品は、確かに好きではありません。しかし、上の三種のうち私の満足度が一番高いのは、2の類型だったりもするので、必ずしも奇抜さ一辺倒でもなさそうです。要するにマニアックな面白さと物語的な面白さと両方を同時に求める欲張り野郎ということなのでしょう。
でその観点からすると、私の満足度が「60年代後でかつ、新しいものほど高くなる確率が大きい」のは、もちろん、「流行」たるマニアックな部分の娯楽性が耐えずバージョンアップしているという、ご指摘の通りの理由が最も大きいとは思うのですが、さりとて「新しいものが大衆性を求めていないからいいのではないか」と言われてしまうと、うーん、そうでもないのです。やはり、新しいものほど、小説の基本部分である物語の作成技術が洗練度を高めているという点も、満足度の高い理由に厳としてあると思うのですね。SFが大衆性を否定する方向に行ったのは、歴史的には六〇年代の一時的な特異な流行で、70、80、90年代と時代を追うにつれ、むしろ大衆性を見直す方向に来ているようにすら思います。私のいいと思うSFは、(かつてはアイデア重視派だと自分で思い込んでいたけれども実際にいろいろ読んでみて初めて気付いたところでは)やはりそういう大衆的な物語性をひっくるめた、総合力の高い作品のように思います。
ただSFというジャンルの特異性として、物語性のみで成り立つ作品というものが存在しにくいため、やはり、流行・科学知識の一般水準に依存するアイデアの部分が必ず早晩陳腐化し、かえって物語性に対する阻害要素になってしまうという宿命にはあると思う。要するに「SFが新しいものほど面白い」のは、「アイデアが陳腐化していない、新しい」という側面と「物語作成技術がレベルアップしている」という側面の両方があるので、「物語を軽視するようになっているが、アイデアが新しいから面白い」というのとはちょっと違うなあと、いいたいのはそういうことなんです。

閑話休題、ニューウェーヴ的なSFは現在では、「大衆性を求める手法としての一つの引き出し、コンテンツ」ぐらいの存在まで矮小化して、取り込まれてしまっている感があり、要は、読者の多様なニーズに応えるため、SFは様々な方向に多様化している、ということだと思います。これはSFに限らず、文学全般、音楽などを含む大衆文化全般に言えることだと思いますが。で、私もやはり欲張りなので、そういう多様なものを気分に任せていろいろと特定の傾向に作品に限定せずに楽しみたいというわけで。もともと熱しやすく冷めやすい性向があるし。
したがって、結論としては、

>私にとっての今後の課題は「不易=物語性」と「独自性」「新奇性」(`[ノットイコール]流行)の追究であろう。面白い物は自分が生きている間位は面白い、と思いたいし。

この点は全く同感であります。



12. Posted by slg   March 01, 2005 13:58
こんなことを書いたが、過去の自分の記事を見直してみたら、「明日を越える旅」のところで、こんなことを書いていた。まっつぁお。

>シェクリイの他、テン、ブラウン、マシスンといった風刺SFの名手は50年代には大勢いたが、60年代のニューウェーヴ運動あたりと前後して一掃されてしまった感がある。残ったのは、大半が、偏屈な純文学の出来損ないと、頑迷な科学論文の出来損ないと、ルーチンワークで書き飛ばされた冒険小説の出来損ないに3極分化している。最も一般的で永続的な人気を獲得できるはずだった部分を冷遇し、純文学やミステリ、ホラーに美味しい部分を奪われてしまった。やはり、SFはもう自閉した老人のための文学なのかも知れない。

今日書いていることと矛盾しているわorz
私はもう自閉した支離滅裂な老人なのかもしれない。
んと、真面目に考えてみよう。
三極分化してSFが駄目になった、みたいに書いているが、それは見方を変えれば「多様化していろんな抽斗を持った」ともいえる訳だよなあ。ただ、シェクリイ的な作品がSFジャンルから締め出されたのは確か。それで大きな市場を逃したことも確か。
で、SFが多様化してレベルアップして最近のほうが面白いなんてことを、今回書いた。それを上のシェクリイの本のところに書いたこととの関連で考えてみる。そして、あることに気づいた。私が最も面白いと感じている作家、プリーストは、必ずしもSFを書いているとはいえないということに。
つまりこういうことだ。SFをどの範囲でそう呼ぶかで結論は左右される。ジャンルSFは多様化し、他ジャンルとの区別が曖昧化している。これは厳然たる事実。かつてのSFジャンルに包摂しうるものが拡大し(筒井の言う「浸透と拡散」というやつか)、全部をSFと呼ぶこともできれば、その核以外はSFではないということもできる。
シェクリイのところで批判した「最近の老人のためのつまらない、売れない自閉的SF」とは、「偏屈な純文学の出来損ないと、頑迷な科学論文の出来損ないと、ルーチンワークで書き飛ばされた冒険小説の出来損ない」のことのようだが、そのときイメージしたものを思い出してみると、
偏屈な純文学の出来損ない
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